生者と死者は共に歌い 後編



「さて……今日は町の人に聞き込み、っと……」

朝からいまいち元気が出ない。
そりゃそうだ。嫌味な相手と夜まで延々と顔をつき合わせっぱなしなのだ。疲れない方がおかしい。
この感覚が分からない人には三日程イーサクロスと一緒に行動する事をお勧めする。
強制でなければ多分私は半日で逃げ出すだろう。
しかし今は、剪滅隊の任務──というか、私の訓練の最中なのだ。逃げ出すわけにはいかない。

この地域の町々は、昨日ザカリーが言った通り、大半が月神アリアストを信仰している。
ルミラフェリア神教会の影響力はさほど強くないし、信者の数も多くない。
だが、そういう所にこそ、アンデッドや悪魔は発生するのだ。というのが教会と、そしてイーサクロスの見解。
よって、そういう町々を巡りつつ、アンデッド退治をしているのが現状である。
とはいっても、実際に退治をしているのは全てイーサクロスであり、聖水やナイフの補充、情報収集程度が精々の私は馬鹿にされっぱなしである。
何度ナイフを渡す時に顔面に突き刺してやりたいという黒い思惑と戦ったことか。とはいっても、仮に実行したとしても即座に返り討ちに合うのは目に見えている。
しかもあの先輩、外面は幾らでも作れるので、情報集めも迅速ときた。
有能だが性格が悪い相手というのは実に手に負えない、と言う事に気付いたのは彼と出会ってからである。出来れば気付きたくなかった事実だ。

もっとも、イーサクロスの方が迅速かつ正確と言っても、私も何もしないわけにはいかない。
そういう事で、店の人たちとかに何気なく話を聞くために町を歩いていたのだが──思わず立ち止まる、いい匂い。
隣を見ると、鳥の肉を挟んだパンと、揚げて蜜を掛けた糖菓子を売っている屋台が立っていた。
空を仰ぐと太陽はほぼ真上。歩き回ってお腹も空いたし、体力を補給するくらいは問題無いだろう。
イーサクロスはこの類の食べ物が嫌いな様子なので、一緒にいる時は食べられないし。全くこれだから教会育ちはいけない。……いや、私も一応教会育ちなんだが。
光に引かれる虫のようにふらふらと屋台に近寄ると、体格のいいおばちゃんがにっこり笑って迎えてくれた。
その美味しそうなの一つ、というとおばちゃんは手際よく肉をパンに挟んで差し出してくる。

「あいよ、お姉ちゃんも旅の人だね。楽しいかい?」
「あー……うん、いや、まあ、その……」

代金を引き換えに渡しながら、微妙な返答。
楽しいというにはイーサクロスの嫌味の比重が大きすぎる。重い。
曖昧な私の返答におばちゃんはちょっと眉を上げたが、すぐに笑顔に戻った。

「そうかい。ま、楽しい事ばっかじゃないんだろうねぇ。何にせよ、これ食ったら元気になるよ」
「そりゃあもう、美味しい食べ物は色んな意味で生きる糧です」

香草と一緒に漬け込んだ肉なのか、独特の匂いがするそれを齧るとなんかもう自然と幸せな気分になる。
こういう時に生きてて良かったなと思えるのは私の良い所だと自負して止まない。
二口目を齧ったところで、口に広がる鳥の風味にふと、ザカリーを思い出した。
骨鳥。
本人にしてみればこんな所で思い出されるのも嫌だろうし、骨鳥にしてみりゃそれ以上に嫌な話だろう。が、まあ連想なんてそんなものだ。
しっかり味わって飲み下してから、私は再び屋台のおばちゃんに向き直る。

「おや、どうした、美味しくないかい?」
「いやそんな事ないですとても幸せです。この香草なんですか?」
「ここの特産だよ。この町の近くに幾つか群生地があるんだ、市場に行けば乾かしたのも売ってるんじゃないかねぇ」
「へぇ、買って行こうかなぁ……じゃないよ」

最後はおばちゃんに聞こえないくらいの声で一人突っ込み。
いけないいけない、どうしても思考がそっちに偏ってしまう。
気を取り直して、仕事の邪魔にならないようには気遣いつつおばちゃんに話し掛ける。

「ところでおばちゃん、森の中に住んでる人、知ってます?」
「森の中?」
「ええ、何か長い黒髪の男の人なんですけど。なんか頼りない感じの」
「──ああ、ひょろひょろしたお兄ちゃんだね」

ザカリー本人が聞いたらまた沈むかもしれない評価が出てきたが聞いてないならいいだろう。
私は食べ進めるのも忘れずに会話を続けた。

「そうそう。って、よく分かりましたねぇ」
「何、その香草取りに行った時に見かけたのさ。森にいるにしちゃあ珍しい格好だったからねぇ」
「その人って、どの辺に住んでるか分かります?」
「ああ、詳しくまでは分からないけど、大体どの辺りにいたかなら教えたげられるよ」

ちょっと待ちな、とおばちゃんは棒を持って、地面に地図を書き出す。
地面に書かれた地図によると、町から近くも無いが、遠すぎるほどでもなかった。
私も屈んでそれを見て、しっかりと方向を確認してから頷く。

「分かったかい?」
「はい、ありがとうございます」

親切なおばちゃんにちゃんとお礼を言ってから、私は屈んだまま屋台を指差した。

「それで──そっちの揚げ菓子も一袋下さい」

お礼とお詫びには、手土産が付き物である。




森の中は、昨日ほど無慈悲な緑を見せてはいなかった。
まあ、道を歩いていたのだから当然といえるが。
というか奥に行く道があったのなら、イーサクロスもそっちから行けば良かったのに。怖いから言わないけれど。
片手に袋を持ったまま、私は狭くなって行く道を歩いていた。
狭かろうが小さかろうが、道は道なので不安感はさほどない。迷ったら今回は逆に辿ればいい話だ。
それに、おばちゃんの地図の間隔からすると、そろそろついてもいい頃合。
段々と木がまばらになり、やがて目の前に空き地と──小さな家が見えた。
そしてその隣の井戸の傍に、長い黒髪の男の姿。
いた。
こちらが声を掛けるよりも早く、ザカリーは振り向いた。
そして途端に、嫌な顔。
分かってはいたが、女性に向けるのはとても失礼な顔じゃないだろうか。いや満面の笑みで振り向かれても怖いけど。イーサクロスのせいで他人の表情の裏を伺う癖が付いてしまった。全く嫌な世の中である。じゃなくて。
二度目の一人突っ込み。今度は心中。
ザカリーは嫌な顔をしたまま、私に近づきもしないで口を開いた。

「……何だ? わざわざ嫌味を言いにきたか? それとも『汚らわしい腐術師』を殺しにきたのか?」

忌諱、嫌悪。
最初に森で出会った時よりも明らかに強い警戒。
ルミラフェリア神教徒の中で、最も熱狂的と言われる聖アリーゼ剪滅隊も、生在る者には刃を向けないのが原則である。
例えそれが、駆除すべきアンデッドを生み出す死人使いだとしても。

しかし、あくまでも、『原則』であり、また、『表向き』といわれればそれまでの話である

『駆除中の不慮の事故』を口実に、ルミラフェリア神教徒は死人使いを消す──。
そんな噂が、彼ら死人使いや、それに近しい人たちの間で囁かれている事を、私も知っている。
大きく反論出来ないのは──少なくとも、一部は事実だからだ。
イーサクロスが昨日私に言った、『崖からでも突き落としてくれば良かったものを』は、冗談から出た言葉ではない。
不浄は滅すべき忌々しきもの。
不浄を生み出すものもまた滅すべきもの。
光と浄化を掲げるルミラフェリア神教にとってそれは真実である。

刃物を持っていて、そしてそれを容赦なく振り下ろせる人間が近くに来た。
しかも、そいつは自分を嫌っている。
それで警戒するなというのは無茶な話だ。
だから、私もそれ以上近づくのはやめて、せめてもの弁解を述べる。

「あー、いえ、違うんです、いや少なくとも私は」
「違う? 何が違う? お前らにとって私たちは死人と魔族の次に邪魔だろう?」

応えは拒絶を含んだ響き。
まいったな、と正直私は思った。詫びるどころか、余計に気分を悪くさせてしまうだけで終わるかも知れない。
ともかく一言だけでも謝ろうと思ったのだが、それも許されない様子だ。
返す言葉が見付からず、中空を見つめた私にザカリーは鼻を鳴らした。

「昨日も言ったが私は宗教屋は嫌いだ。さっさと帰っぐぁっ!?」
「ほわっ!?」

言いかけたザカリーの声の後半が叫びに変わった。私の妙な声は聞こえなかった事にしといて下さい。
すこーん、といい音を立ててザカリーの頭、そして井戸の縁に当たって地面に落ちたそれは、木製のコップ。
どうやら、窓から投げられたものらしい。
頭を押さえるザカリーの後ろから、影が顔を覗かせた。
昼間には、あまりにも似合わない姿が。
白い、細い体、日の下でも暗い眼窩、剥き出しの歯。
動く白骨死体。
スケルトン。
そんな姿が、窓から私たちを眺めてどこか軽い声で一言。

『何女の子苛めてるんデスか、ご主人』
「うわ喋ったっ!」

失礼とか思う以前に思わず声が出ていた。
ここでも言い訳させてもらうと、スケルトンが喋るところを見るなんて生涯初体験。
スケルトン自体は、(イーサクロスの)アンデッド退治の時に何度も見たのだが、それは口を開閉させて音を鳴らす程度の動きしかしなかったのである。大体、骨が滑らかに喋るなんて誰が予想するか。
骨は私の台詞には構わず、ぺこりと頭を下げる。

『ご主人が失礼致しマシた』
「あ、これはあの、いえ、こちらこそ失礼しました」

思わず頭を下げ返す。何だこの光景。
そのやり取りの間に、立ち直ったザカリーが頭を押さえながらスケルトンを振り返った。

「──何すんだレサっ!」
『声を掛けても聞こえないかと思いマシて』
「だからって頭に投げることは無いだろうが!」
『狙い易いんデスよ。頭の辺りが。無駄に大きいから。それに冷静になったデショウ?』
「無駄っ……!? 私はいつでも冷静だっ!」
『先程の会話の様子からはそうは見えまセンでしたが』
「あれは、私は悪くないっ!」

淀み無く続く会話に、私は口を挟むことも出来ずに呆気に取られる。
ザカリーが操って先程までの行為を行ったのかと思ったが、どう考えても意味のある行動とは思えない。
私を油断させるため、にしてもそれで利益はないだろうし、何しろザカリー自身が現在隙だらけ。
そうすると、このスケルトンはほぼ自律の状態で活動しているのだろう。
しかも、大したダメージではないとはいえ、自分の意思で術者に攻撃まで仕掛けた事になる。
喋るスケルトンも初めてだが、ここまで術者と対等な会話をする使役物も初めてである。
色々な意味で規格外だ。
ザカリーが必死で告げた言葉を無視して、レサと呼ばれたスケルトンは家を示す。

『外で立ち話もなんデショウから、どうぞ中へ』
「おい待て、私は何も──」
『ご主人もさっさと中に入って下サイ。いい年して外で喚くなんてみっともない』
「喚いてなんかないっ!」
『喚いてマス。今まさに』

ぴしゃりと言い切られた言葉に、ザカリーは沈黙。
さあ、と扉を開けたスケルトンに促されて、思わず流されるように私は中へと歩いていった。


家の中は綺麗に片付いていた。
向かいに座ったザカリーは、不機嫌な表情で私を見ようともしていない。
うわぁ、雰囲気最悪だ。
レサが二人分の冷えたお茶を持って来たので、私は慌てて頭を下げた。……どうにも慣れない。
いや、スケルトンに給仕されるのに慣れているというのは、それこそ死人使いとかその程度なのだろうが。
そこで私は袋の存在を思い出す。
ザカリーは見たまま受け取ってくれそうにないので、レサにその袋を差し出した。

「あ、そうだ、これ、手土産というかお詫びと言うか」
『おや、すみまセン。むしろご主人が何かご迷惑をおかけしたのではないのデスか?』
「いえ、昨日道案内してもらったのに、ちょっとまあ、失礼な事を。だからこっちが悪いんですが」
『いいえ、ご主人もちょっと意地っ張りなものデシて』

むっすりと顔を背けたままのザカリーに、レサは肩を竦める。
日光の下で見るスケルトンというのも、なかなか珍しい光景である。しかもこのレサ、動きがとても人間臭いというか、自然なのだ。
もしかしたら、ザカリーは大分腕のいい術師なのかも知れない。会話をしてもらえない今の状況では聞くことも出来ないが。
その状況に気を遣ったのか、レサはザカリーに向き直った。

『ほらご主人、いつまで拗ねてるんデスか』
「……拗ねてない」
『わざわざ手土産まで持ってお詫びに来てくれたのに、大人気ないデスヨ』
「毒でも入ってるんじゃないのか? それに別に来てくれって頼んだわけじゃない」
『今更毒の一つ二つで死にマスか? ご主人は頼まれないとお詫びもしないんデスか? だから友達が少ないんデスヨ』
「それは関係無いわっ!」
『そう思うならちゃんとお話しして下サイ。ちゃんと会話も出来ないなんて、生きながら頭腐ってるんデスか』
「…………」

すごい。
力関係が一目で見て分かる。強いなスケルトン。あれ、ザカリーが弱いんだろうか。
今度こそ完全に沈黙した男は、髪の毛を手で乱してから、結局私へと視線を向けた。
それを確認してから、レサは奥の方へと引っ込んでいく。
ため息と共に、ザカリーの口から言葉が漏れた。

「……で、結局何の用なんだ」
「いえ、だから昨日は悪かったなー、って。すみませんでした」

男は深く息を吐いた。
それに混じるのは諦めだ。

「……お前は何も言ってない。それに、詫びも何も、あの男の方は何とも思ってないんだろう?」
「はあ、まあ、そうでしょうねぇ」
「何もしてないやつに、形だけ謝られてもどうしようもない」

ふい、とまた顔を背けられる。
言ってることは分かるが、言動がどうにも子供みたいな男だ。
とすると、レサがお母さんか。いや性別が分からないからお父さんかもしれない。どちらの言葉も似合わない外見ではあるが。

「……でもあの、ザカリーさんが死人使いだって気付かないで案内して貰ったのは私ですし」
「ふん、『気付いてたら腐術師なんかに頼まなかったのに』、か?」
「いえ確実に頼んでましたよ迷って行き倒れるより全然マシじゃないですか」
「……即答するかお前」

若干声に呆れた様な響きが混じった。何でだろう。私が何か言うとこういう反応をする人が結構いるのは。
そんなに呆れられる様な事をしている気は無いのだが。
自覚がないのだろうか。いや違う。これが普通だ。信仰とか自尊心よりも命が大切。実に普通。
背けられていた顔が私の方へと向き直った。

「ルミラフェリア神教徒には、死人使いは邪魔だろう?」
「そりゃ熱心な人にはそうでしょうけど……私、そんなに熱心じゃな……あ、これあの眼鏡には言わないで下さい殺されます」
「安心しろ、男のほうとは二度と顔を合わせる気はない」
「でしょうね。精神衛生と身体の安全上それをお薦めします。出来れば私も二度と顔をあわせたくないんですが」
「……なんで一緒に行動してるんだ。そんなのと」
「そこはまあ、世間は厳しいと言うか、通過儀礼というか、止むに止まれぬ事情というか」

段々と声の勢いが落ちていくのが自分でも分かる。
いや本当何で一緒に行動しているのか考え始めたら色々と思考の迷宮に入り込みそうな感覚だった。
出口はないだろうから永遠に迷子である。ならば早々に入口で撤退しよう。
首を振って私はザカリーに視線を戻した。
青い瞳は目が合ったらすぐに逸らされる。
ああやっぱり好かれてはいない様子だと思う前に彼は口を開いた。

「……勘違いするな。人と目を合わせるのが嫌いなだけだ」
「あれなんで分かったんですか? もしや心でも読めるんですか」
「分かりやすい顔をしている」

肩を竦めて告げられた言葉にイーサクロスにも似たような事を言われたのを思い出す。
もっとも、あの先輩の場合はもっと酷い言葉だったが。腹が立つので内容までは思い出さないことにしておこう。
ザカリーは私に顔を向けた、それでも視線はどこかにずらした状態で続ける。

「……とりあえず、お前の言いたい事は分かった。が──」

言うべきことに迷ったかの様に、口を数度開閉させて、ため息混じりに彼は言った。

「私は、宗教屋は好きじゃない。ルミラフェリアだけじゃない。アリアストだろうがレーゲルマイアだろうがゲドゥバだろうがな。神自体ではなく、それに『仕える』と自称する連中が嫌いだ」
「はあ」
「だから、お前が個人的にどうこうではなくて、その……その類の人間と、私はあまり関わりたくない」

今度こそザカリーは目を伏せる。
私が何か答える前に、彼は視線を逸らしたまま立ち上がった。
長い黒髪を揺らして扉まで歩いたザカリーは、そこで一度立ち止まって息を吐く。

「……だけど、その謝罪は素直に受け取っておく」
「ありがとうございます」
「……茶、飲んだら帰れ。私は少し出てくる」

ほんの僅かな間、振り返って彼は外に出て行った。
私の前には、手をつけていないお茶が置いてある。
草を踏む音はすぐに遠くなって──私は肩を竦めてそれに手を伸ばす。
と、それを見計らって、という訳ではないだろうが、レサが顔を出してきた。
手に持った皿の上には、私が持って来た揚げ菓子と麦粉の焼いたのが乗っている。

『……あれ? ご主人はどうしマシたか?』
「あ、いや、なんか、ちょっと外に出てくるとか」
『お客さん放って、何してるんデショウ、あの人は──』
「いやいや、いいんですいいんです、すぐにお暇しますし」
『そうデスか? まあゆっくりして下サイ。ご主人にお客なんて珍しいっていうのに』

先程の私の仕草と似た様子で、スケルトンは肩を竦めた。
膝を折って机に皿を置く際に、距離が近くなる。
あまりに普通の日常的な仕草と、私にとってはある意味近く、ある意味最も縁遠い存在が釣り合わない。
お茶を手にしながら、好奇心が頭をもたげるのを感じる。
何しろ喋るアンデッドなんて珍しいものは滅多に見られないのだ。
見られたとしても、イーサクロスと一緒なら会話など出来ない事は間違いない。
そして私の美点かつ欠点は、素直で正直なところだ。……うん、ちょっと嘘だけど。

「ええっと、あー、失礼かとは思いますがちょっと好奇心発動させても宜しいでしょうか」
『はい? 失礼にはご主人で慣れていマスからどうぞ』
「……ザカリーさんとは、生前からのお知り合いで?」

黒い暗い眼窩と目が合う──。
よく分からないが、一瞬、鏡を見ている感覚に陥った。覗き込む、表の、裏。
レサは小さく、首を傾げた。

『さあ、それは何とも』
「え?」
『私は生きていた時の記憶はありまセンし、今のところ、それが必要とも感じておりまセン』
「……そう、なんですか? 不便じゃないですか?」

見下ろす形になるのを避けているのか、彼だか彼女だか分からない相手は膝を折った姿勢のまま。

『ご主人が生きていた頃の私を知っていたのか、それとも見知らぬ他人だったのか。それを、『レサ』たる私が知ってどうするのデス?』
「…………?」

私が僅か眉根を寄せたのを見て取ったのだろう。
スケルトンは返事を待たずに続ける。

『私は、『レサ』デス。生前は同名か別名かも知りまセンが、それでも、私という『レサ』とは異なったはずデス。外見は見ての通りなので勿論として、性格だって恐らくは変わっている事デショウ。ならばそれは、他人と同様──『レサ』は左右されまセン』

舌のない口が言葉を紡ぐ。
それを心中で反芻して、私はどうにか意味を取った。

「生前の自分は、他人だと?」
『はい。この体も魂も、元は『レサ』のものではない。だからこそ、少なくとも、この現に存在している間だけでも、私は『レサ』であろうと思っていマス。なので──生前の記憶を、私は、必要としまセン』
「……生と死の狭間は、辛くないですか?」
『確かに、中途半端といえば中途半端デスが……私は、ここに存在していマス。私は、私の存在を否定しマセん』

余計ともいえる問いに、レサは静かに首を横に振る。
続く言葉を無くして私は口を閉じた。
間を埋めるためと少し落ち着いて考えるためにお茶の入ったカップを干す。

『──あ、もう一杯いりマスか?』
「あー、いえいえ、さすがにもう戻ります。ごちそう様でした」
『おや、もうデスか?』
「ええ、すみません余計な事まで」
『いいえ。それじゃあ、お帰りはお気を付けて下サイ。ご主人がいたら送って行かせるんデスが』

それって役割逆じゃないだろうか。
非常に突っ込みたくなったが、先ほどまでの力関係を考えれば納得できない事はない。
ついでに、それを言ってレサが『送る』とか言い出して、実際に送ってもらったりしたらそれこそイーサクロスが怖い。もう何よりも怖い。レサを滅ぼした後で、微笑を浮かべながら私の首を締めるくらいはやる。絶対やる。神官以前に人間として問題がある。
だから私は首を振るに留めて、お礼を言って家を出た。

家の前で周囲を窺うも、ザカリーの姿は見えない。
気がつけば既に日は暮れかけている。
梢から漏れてきた夕日が目を射し、私はそれを細めた。





◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




「で、それでどうしたの?」
「街に戻ったらイーサクロ」
「その名前聞きたくないから代名詞で」
「……街に戻ったらあの眼鏡が即座に違う所に移動する、って言って移動してそれっきりですよ」
「それでラティ犬は引っ付いていったんだ。何処までも犬だね」
「仕方ないじゃないですか、私に選択肢はなかったんですよ!」
「まあ組織ってのは多かれ少なかれそんな物だとは思うけど。そう考えると僕は優しいでしょう?」
「はい?」
「――今本気で聞き返したね全く。食い意地の張った飼い犬にこんなに優しいのに」
「優しい相手が人のこと犬呼ばわりしますか」
「ここに僕って実例がいるだろう?」
「すいません、鏡を覗いたかのようにヴィルの姿が見えなく」
「ほ、ら、ここ」
「痛い痛い、だからほら優しい人は顔掴んで無理やり向けさせたりしないんですってば!」


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