競争よりも有意義なもの 前編
シエーヌヴァルには、王宮の横に一つの建物が存在する。 正確に言えば一つでは無いが、一つの塊として扱われる建物の集まり。 それは王宮付きの学術機関である。宮廷に仕える学者及び文官の多くが学ぶ場所。 その中庭に、一人の青年が立っていた。 年の頃、18、9程度だろうか。目鼻立ちの整った、長身の青年である。 ユーリアーノス・リベラート。 優秀と誉れの高い、美貌の学士。 長い銀髪を後ろで一つに纏めたその姿を、廊下を歩いていた黒髪の青年が見留める。 全身が黒で統一されたこの青年もまた、幼き頃より神童と持て囃されし者。 「……どうしたんだ、ランド?」 「いや、大した事じゃないんだけど、ちょっと待っててくれるか?」 友人が問い掛けるとランド──ランデルフォイ・フーデン、彼は笑顔を浮かべたまま、廊下の端へと進んだ。 窓を開けると、春の日だまりの様に朗らかに話し掛ける。 「やあリベラート君。どうしたんですか、馬鹿が馬鹿みたいに突っ立って?」 「馬鹿に馬鹿と言われるのは屈辱的らしいですが、所詮馬鹿の戯言なので流しましょう。空を見上げる風情も無いフーデン君には分からない事ですよ。要約すれば、関係ないから話し掛けるな、と言う事ですが」 春の日だまりのように──だが、そこに潜む毛虫の如く棘が内臓された言葉。 そして返ってきたのは、喜びに咲く花さえも一瞬にして凍る絶対零度の声。 ランドの付近、友人含む数名が慌てて身を背後に引いた。 それを気に留める事もなく、友好的と言う言葉からは完全に隔絶された会話は続く。 「確かに。でもそれすら馬鹿が熱にうなされて更に馬鹿になった時の馬鹿台詞だと思えば腹も立ちませんし。それに、君が風情などと言うのは、魚が陸で兎跳びをしているくらいに違和感がありますけどね」 「人が言った事を捻りも無しに返す者よりは利口だと思いますが。有り得ない事と比べるのはどうかと思いますよ。しかし、有り得ない事でしか自身の説を語れない詭弁者だから仕方ないとも妥協出来ます」 「ああ、そう言われれば魚が兎跳びをする方が、君に風情を求めるよりは確実ですね。で、後半のお言葉は君の足下に出来ている君の影の主に仰った方がいいですよ」 「自分の事を棚に上げて人の揚げ足を取るなんて、貴方も虫がいい事で。鏡を用意しますから、貴方が覗き込んだ時中にいる人にそれをそっくりお返しして下さい」 「ご親切に。でも鏡程度ありますので遠慮しましょう。それに、それを言うならば、虫がいいではなく人がいい、でしょう? 相も変わらず考えないで言葉を使用していますね」 「これは失礼。ああ、ちなみに、貴方の事を虫程度に見ているとかそういう事ですが」 「いえいえ、こちらは君を虫以下だと思っているから気にしないで下さい」 「そうですね、貴方が虫と言っては虫に失礼でした」 微笑むランド。無表情で見返すユーリィ。歪む空間。走る稲妻。 互いに、この機関のトップクラスだと自他共に認めし者。 この優秀なる二人が揃えば── 飼われている鳥や動物は逃げようと暴れ出し。 教授は胃痛と心労で病院に運ばれ。 付近の生徒はプレッシャーでノイローゼになり。 挙げ句の果てには、ラップ現象宜しく空間の割れる音が響く始末。 この二人は──破滅的なまでに仲が悪かった。 「大体、人が思索に耽っている所に不躾に声を掛ける時点で、もう非常識さが垣間見られます。ああ、全体的に非常識なので仕方がありませんか」 「ははは、まさか君が思索などと言う高度な事をしているとは思わなかったものでしてね。幾ら豊富な想像力にだって限界はあります。何処かのリベラート君のような誇大妄想癖でもあるなら別ですが」 「自分の考えの及ばない事は認めない、許容範囲の極端に狭い人間は困りますね。無知蒙昧で。何処かのフーデン君のように」 毛虫を越えて既に毒蜘蛛になっているランドの台詞と、ますます温度を下げるユーリィの返事。 ランドの友人がかろうじて遠巻きに見守って──いや、退避しているだけだ。 『触らぬ神に祟りなし』 正にこの言葉通りである。 「なぁ……ここで逃げたら、俺たち職務放棄になるのか……?」 「いや……許されると思うぞ……」 中庭で植物の手入れをしていた研究員がぼそぼそと言い合う声が小さく響く以外は、鳥の声もしなくなった。 仲が悪いならば近付かなければ良い話だが、不幸な事にこの二人は相手の荒探しをしないと気が済まない様子だった。 実は似た者同士なんじゃないかという話も端々で聞かれるものの、面と向かって告げた人間は皆無。 皆、自分の命は惜しい。 ふと、胡散臭いまでに晴れやかな笑顔を浮かべてランドが続ける。 「そういえば、君が二番だった前期の研究業績開示を見ましたか?」 「ええ、何処かのフーデン君が遅刻して二番だった試験の結果も出ていましたね」 「そうですねぇ、何処かの誰か、人名を挙げるとするならば、リベラート君が各所に無駄な時間を使って罠を配置して下さっていたお陰で遅れてしまったんでしたっけ。どうせ無駄な時間が溢れて零れているんでしょうけれど」 「此方も個人名を特定させて頂くと、フーデン君が只でさえ少ない頭を使って無駄な資料を何十枚も紛れ込ませた上に、必要な資料を隠蔽してくれたお陰で、提出期限を過ぎてしまった訳ですが。低レベルな事しか考えつかない脳とは不幸ですね」 高レベルな学術知識にしてはあまりに低レベルな争いだ。 取り残された者、あまりの空気の重さに動けなくなった者など、周囲の人間が一斉に突っ込む。 無論、心の中でだが。 ランドの微笑みは崩れない。ユーリィは眉一つ動かさない。 「責めてなんかいませんよ?」 「私は責めていますが」 「僕は責任能力もない相手に責任を負わせようとする程、狭量な人間ではないですから」 「それでは貴方は自分が責任能力のない者だと自覚はしているんですね。さすがフーデン君」 「重箱の隅を小姑の如く突付く様な君に言われると思いもひとしおです。悪い意味で」 「姑をイビリ倒して背を向ける様な貴方に言われると胸が詰まります。吐き気で」 空気の重さはすでに鉛。雰囲気の悪さは飽和状態。 飛ぶ鳥でさえ落とす勢いだ。慣用句としての意味合いではなく、見たままの意味で。 誰でもいいから止めてくれ、と誰もが思ったとき、ユーリィが顔を上げて時計を見る。 「悪いとは思っていませんが、私は失礼しますよ。失礼ではないですが。フーデン君に構っている暇は元々無いですし」 「いえいえ、引き止めたなんて思ってませんが、精々何処に行くにしても恥をかかないようにして下さいね。同類と思われると迷惑ですから」 「誰かが自分の頭の上の蝿を追ってくれるようだと、もう少しこの周辺の空気も清浄になると思いますがね。存在自体が既に清浄ではないから諦めるとしましょう」 答えも聞かず、さっさと歩き出すユーリィ。その場に安堵の雰囲気が満ちる。 にこにこと笑ってその背を見送るランドの近くに、友人らが恐る恐る戻ってくる。 「ラ、ランド……もうちょっと、何ていうか、言葉を選んで」 「僕は極限まで選んでいるよ?」 言い終わらないうちに、最高の笑顔で振り向かれて硬直。 鼻歌さえも歌いだしそうな笑顔で、ランドは廊下の先を指す。 「さて、じゃあ行こうか。何処かの愚か者の所為で時間を無駄にしたしね?」 「………………」 無言で続く友人たち。 これさえなければ、それなりに良い奴なのにな──。 言葉は出ず、只こっそりと溜息を吐くのだった。 ランドとの場を後にし、ユーリィの向かった先は、王宮の一室。 途中で、少女の声と何かの割れる音、悲鳴が聞こえてくる。 またか、とユーリィは視線を向けた。 もつれる様にして、大小二つの人影が扉から転がり出る。 そのうちで大きな方が、顔を上げてユーリィに手を伸ばして来た。 「ゆ、ユーリアーノス君! 姫様を捕まえぐえっ!」 「ふはははは! 私を捕まえようなんざ四十年遅いわ!」 大臣を踏みつけて、飛び出してきたのは金髪碧眼の少女。 勝ち誇った笑いを上げていたが──ユーリィの姿を見て、腰に手を当てたまま硬直する。 「あ、ゆ、ゆー、りぃ……」 「……クリスカナディス様、今は何のお時間でしょうか。私の記憶が正しければ、自由時間ではなかったはずですが」 「いや、そのだな。ええとあれだ」 「言葉使いは丁寧に。説明は簡潔に」 「……それより早く、私の上からどいて下さい姫様ぁ……」 大臣の言葉よりもユーリィの視線の方が気になったのか、王女は慌ててその背から降りる。 軽い少女の身でどうやって大の大人を力押しで打ち破る力が出るのかは分からないが、出来るものはどうしようもない。 「ディアバン様、後は私にお任せ下さるよう」 額を押さえながら戻っていく大臣を見送り、王女へと顔を戻した。 静かになったからか、女中が荒れた部屋の中をさかさかと片付けていく。 突発的事態の処理にも手馴れている辺りがここの国の者の特徴だろう。 ユーリィは手で椅子を指し、座るように促す。 「それで、今は何のお時間でしょう」 「え、ええと、さっきの時間の先生が、突発的事故で来られなくなったので」 「上から落ちてきた空の鉢が直撃したのでしょう? 不幸なことです」 「何で知ってっ!?」 「先程廊下で話しているのを聞きました。──風も地震もなかったのに何故落ちたんでしょうね?」 「さ、さあ……わ、私には何とも想像がつかねぇ、つきません。わ」 汗を垂らしながら目を逸らす少女に、心中で溜息。 この姫は、どちらかというと父方──陛下の方の血を多く継いだようだな、とも考える。 「判りました。では、その間きっと自習をしていた事と思いますので、繰り上げて始めましょうか」 「げ」 「変な声は出さないように。この間言った事は覚えていますか?」 クリスカナディス・エルス・シエーヌヴァル。 性別は関係無いシエーヌヴァルに置いては、揺ぎ無き第一王位継承者。 三、四年ほど前より、ユーリィは彼女の教育係を仰せ付かっている。 最初は遊び相手として向かわせられるだけであったが、ユーリィが頭角を表すにつれてその位置も変わり、今では礼儀作法から一般教養の一部まで、彼の受け持ちとなった。 正直、ユーリィは子供は好きでは無いし、手の掛かることも好きでは無い。 なのにこの王女ときたら、先程のような騒ぎは日常茶飯事。 勉強は嫌だとしょっちゅう逃げ出し、果ては教師まで襲う始末。 子供な上に、手も掛かる。ユーリィにとっては、二重の苦痛だ。 しかし、と、目の前の王女から、窓へ視線を移す。 彼にとって不倶戴天の敵とも言えるランデルフォイは、王子アーレンウォルドの教育係だ。 役職は同じといえど、第一子を任されているというところで、ユーリィが一歩勝っている。 それを今覆すわけにはいかない。遅れをとってはならない。 「では、本を出して下さい。始めましょう」 仕事なのだから、と割り切れば、これ以上の役職は、今の状況では無い。 問題を解こうと四苦八苦する少女を見ながら、早くこの時間が過ぎないものか、と考える。 割り切ったとしても、ユーリィにとっては、些か憂鬱な時間ではあった。 |