赤い手帳
○月○日 今日は朝から窓の外に待機。 カーテンが閉められていたため、鍵を外して窓を開ける。 非常に慎重に行ったつもりだったが、微かに音か気配を表してしまったらしい。 中が見える程度に開いた時には満面の笑顔のあの人がいた。 吹き飛ばされて中庭の隅にダウン。 見回りの兵士が横目で見て通り過ぎて行った。 自分が言うのもなんだが、明らかに危機感が足りない気がする。 昼頃。 体力が回復したので、遠くからこっそりと行動を見守る方向にチェンジ。 あの邪魔臭い教育係の講義を受けているところだった。 密室で二人切りなんて羨ましい事この上ない。妬ましい。 むしろシチュエーションとしては美味し過ぎる。鍵を後ろ手で締めてにやりと笑ってみたい。 そんな事を考えていたら、無造作に窓を開けた教育係がペーパーウェイトを投擲してきた。 どうも楽しい想像が過ぎて、気配の消し方が甘くなっていたらしい。 「あ? どうかしたか?」 「何でもありません」 屋根から落ちていく途中、そんな会話が聞こえた気がするが定かではない。 湿った土の感触に目が覚める。 空はだいぶ暗くなっていた。 額が本当割れるように痛い。触ったら血が出ていた。しかも結構な量だ。 とりあえずハンカチで拭いて済ます。すぐに治ると思い込めば治るものだ。 近くに落ちていた忌々しいペーパーウエイトを発見。 拾い上げたら、見事な花模様の描かれたそれの表面に「死」と刻んであった。 何で刻んだのかは知らないが、やたらと深い。念がこもっている。 もっともあの邪魔臭い教育係は色々と理解を超えているので、もしかしたら羽ペンでもガラスに文字を刻む程度はやってみせるかもしれない。いや、きっとやる。 本当に心底邪魔臭い。消そうと何度も目論んだが、全て失敗に終わっている。 次こそは消す。 苛立ちに任せて花壇のレンガにペーパーウエイトを叩き付けた。 ガラスの癖に跳ね返ってきてまた額に当たった。 痛い。 あの邪魔臭い教育係の怨念に違いない。 もう一度叩き付けてやりたい衝動を押さえて花壇に埋めてきた。 多分、あの花壇の半径五メートル以内の植物は枯れるに違いない。 今日は体力を使いすぎたので一旦戻る事にする。 朝に見られた笑顔でちょっとは満足だ。 ○月×日 午前中は仕事。 簡単なのでさっさと済まして愛しいあの人の顔を見に行く事にする。 城に侵入したら、ちょうど護衛隊長と一戦交えている所だった。 凶悪な笑顔が眩しい。 あの笑顔でいびられたい。むしろあの笑顔を崩してみたい。泣き顔がいい。 護衛隊長と罵詈雑言合戦を繰り広げているその姿ですら愛しい。 近頃はボウガンにこっているらしい。 一発目で服の端を縫いとめたが、護衛隊長は裾を切り捨てて逃げたので二発目は外れ。 死ぬわこの馬鹿娘、と護衛隊長は絶叫している。 いっそあれがあの人を気絶でもさせてくれればお持ち帰りが楽なのだが、期待するだけ無駄だろう。 お持ち帰り。心が躍る響きである。 太陽の下で輝く金髪が美しい。 あれを暗い部屋に閉じ込めてみたい。ああしてみたい。顔が勝手に笑う。 流れ矢が一発飛んで来て顔を掠めた。 そうこうしている間に、結局未決着のまま勝負は流れた様子だ。 この二人の勝負は、大抵において護衛隊長が負けるか、良くても五分五分で流れる。 あれはあの仕事を嫌がっている様子だが、自分にとっては不可解である。 その割にはよく邪魔をしてくる。少々うっとおしいが、教育係よりはマシである。 逆に使いようによっては利用できそうなので、是非あのままの直情的な性格でいて欲しいものだ。 ぐったりと疲れた顔の護衛隊長と違い、あの人は爽やかな笑顔だ。 シャッターチャンスとばかりにこっそり撮った。 あの人には見付からなかったが、護衛隊長に見付かった。 やっぱり疲れた顔でいい加減にしろよ貴様と蹴りを入れてきたが華麗にかわす。 体力を消費しているせいもあるだろうが、鋭さが足りない。多分やる気があんまりないのだろう。 怒鳴る護衛隊長は無視して、城壁を飛び越え帰ることにする。 今日の写真もコレクションに加えておかねばなるまい。 ○月△日 今日は朝から城内が騒がしい。 どうやらあの人が弟の王子と遊びに興じている様子だ。 泣きながら叫ぶ王子は傍目にも少々哀れである。 しかし、あの人が泣き叫んでいるならばともかく、王子の方が泣き叫んでも特に嬉しくはない。 自分が考えてもどうしようもないことだが、本当にこの国は行き先は大丈夫なのだろうか。 こちらとしては仕事さえあればなんでもいいのだが。 様子を窺っていると、どうやらあの人はぬいぐるみに何か武器を仕込んでみたらしい。 王子は間違いなく実験台なのだろう。 ぬいぐるみを抱えて屋根を駆け回る様子がとても可愛らしい。 何か間違っている気もするが。 距離を少々離して逃げ惑う王子の方も、運動能力の素養は大したものだと思うのだが、性格があれではどうしようもないだろう。 城の屋根からバルコニーに跳んだ時に生足が見えた。 貴重なショットに思考があらぬ方向へ飛ぶ。 やっぱり面倒臭い遠回りな方法など使わずに部屋に催眠霧でも吹き込んで持ち帰るべきだろうかああそうしよう手っ取り早い方法がいい今すぐ準備して向かう事にする。 待ってて下さい、クリスさん。 ぱたん、と手帳を閉じて彼女──クリスカナディス・エルス・シエーヌヴァルは微笑んだ。 当然のことながら、「ああ何て微笑ましいんでしょう」という笑いではない。 内情的には真逆である。 先程、部屋に妙な装置を仕掛けようとしていた赤い変態ヒットマンを吹き飛ばしたのだが、その時に落とした手帳。 興味本位で開いてみた(罪悪感は特になかった)が、文章を書く時は存外まともであること、文章には疑問符はつけないこと、しかし考え方はやっぱりまともではないことが分かった。無駄な情報だった。 多少なりとも有益だったのは、先程の妙な仕掛けがおそらく催眠薬を吹き込むためのものだったのだろうということだけだ。 窓を開けたら発動するトラップの数を増やさねばなるまい。 この前にも長々と書いてあったが、精神的害にしかならないだろうからもう読まないことにする。 誰が待つか。 声には出さないまま、心の中で毒づいて椅子から立ち上がる。 そろそろ日課の体力づくりの時間なのだ。 ピンク色とフリル、少女趣味に溢れた自分の部屋を見回し、書き物机の隣に置いてあった小さな陶器の紙入れを引っ張り出す。 窓辺まで行き、香の火を使って手帳に火を点けてから、そこに無造作に放りこんだ。 次に来た時は完璧に、完膚なきまでに沈めてついでに地面に埋めて上に岩でも置かせよう。 後、棲家を突き止めて写真全部燃やす。 腕立てをしながら空に流れていく煙を見て、彼女は心の底から決意したのだった。 |