ヴィルとラティ <5> 浮かんだのは、何時の風景だったか。 「そういや君、帰る街が無いって言ってたけど、実家とかは?」 「有りませんよ。親の顔も知りません」 ランプの芯が燃える音が微かに聞こえる室内で確かにその会話は成された。 男に明かりの必要は無かったので、その光は女の為に存在していた。 「捨て子?」 何ら気負うことなくあっさりと発せられる男の言葉。 同じくらいの気軽さで女は返答する。 「本人目の前にしてはっきり聞く神経は人のこと言えない図太さというか、それは無神経に近いんだとは思いますがまあ私は寛大で気にしませんのでいいでしょう。私が赤子の時にヴァンパイアに殺されたそうです」 「……ヴァンパイア目の前にして、その台詞を言いよどまないラティ犬には負けるよ」 椅子の背に身を預け、小さく嘆息。 年月を経た城と同様の時を存在している椅子は、元の造りが良いのか軋みもしない。 広い室内にいるのは二人だけだが、それに寂しさを覚える存在はここには無い。 男は最早慣れているし、女はそんな事に頓着する気質を持ち合わせていない。 木の実を砕いて生地に混ぜ合わせて作った焼き菓子を口に運びながら、女はやはり気軽に答える。 軽い菓子を噛み砕く音が合いの手の様に入った。 「だってヴィルは殺してないんでしょう?」 「少なくとも図太い赤子と見えた事は無いよ。それより、ラティ犬」 「赤子に図太いも何もありますか。というか思い切り私のこと図太いと言いましたね」 「言ったけど? で、今君も自分だって認めたよね。……じゃなくて、ラティ犬」 「何ですか」 二度目の呼びかけは無視されず、問い掛けが返って来た。 紅の瞳の中に、黒髪の女の姿が映り込む。 「人の顔を見て話すのはいいけど、空になった皿の上を手探りで延々探り続けてるのを見るのは呆れを通り越して哀れだよ」 「──いつの間に」 「さっきから話の合間合間にボリボリ食べてたでしょ君。今から育ちたいの? 横に育ちたいのラティ犬は?」 「雇い主が精神的な重圧をかけてくるのでやせ細らないようにと必死の努力をしてるんです」 手を胸に当て、儚い気風を演出しているのか女は顔を斜め上に向ける。 雇い主の面前で言ってのけるその様子からは、精神的な重圧に耐えている健気な使用人の面影は当然ながら見て取れなかった。 本人の女とて、本気でやっている訳では無いだろう。 本気だったら男はこれまた本気で医者を呼ぼうと言うに決まっている。 「へぇ。で、飼い主を肉体的重圧で押し潰す気なんだラティ犬は」 「想像の中でどこまで私を巨大化させたら気が済むんですか」 「城は壊さないでね」 「竜の大きさすらも超越してるじゃないですか」 「大丈夫だよ」 「何がですか」 男は微笑みを女に向けた。何の裏も無い様に。 しかし、女はそれに見惚れるような性格ではないために、静かに疑念の眼差しを注ぐ。 細いが華奢とは言い難いその指で、男は山を描くように半円を空中に描いた。 「城より大きな竜も存在するらしいから」 「それはフォローですか?」 「ううん。追い討ちのつもり」 「……更に悪かった!」 両手を顔に当てて悲嘆のポーズをする女。 喜劇に出てくる滑稽な道化役の様に大きなリアクションに男がまた笑う。 が、すっ、とその笑みが引いた。 「──ねぇ。ラティ犬」 「はい?」 「──恨んでる?」 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 朧な夢を眼前に映しながら、ヴィルモアは静かに目を開いた。 残響が残って離れない。 ほんの数日前の会話なのに、随分と遠い記憶に思えた。 長い時を生きるヴァンパイアにとって、数日など瞬きにも値しないほどの短い間であるというのに。 ──あの問いに、あれは何と答えたのだったか。 問いを発した時の自分がどんな心持ちであったかは覚えているのだが、答えが思い出せない。 夢が途切れたのは、苦笑のような笑みを浮かべたラティーシャが口を開いたところだった。 まずいな、あれの記憶力の悪さが感染したのかな、と頭を振ってみる。 その行為で夢の残滓は霧散し、現実が全てを染めた。 大して長くも無い夢だった。寝始めてから数時間程度しか経っていないだろう。 当然ながら、夜には程遠い。 太陽は人々の頭上、真上でその存在を主張している時間だろう。 普段からこんな時間に起きるわけはない。 眠らずとも不死者は滅びないが、どうせ日の光に行動を制限されて時間を持て余すのは間違いない。だとしたら、寝ていた方が賢い。 それでもヴィルモアが起きたのは、全身を針の先で刺されるような感覚が襲ってきたからだ。 彼はその紅瞳をゆっくり瞬かせ、次いで闇を貫くように伸ばされた手が棺の蓋を押し開ける。 「……昼間から何の用だろうね」 地下室に響く声は低く暗く。 それに応えるかの様に地上へ続く階段の壁に、揺れる光と影が見えた。 昼間であっても、地下にあるこの部屋は常に暗い。 しかしヴァンパイアであるヴィルモアには何かを見るのに光はさして必要ないのでそれでも不都合は無い。 不都合があるとしたら、不躾な侵入者だけだ。 誰何の声を上げる必要もなく、影の主は階段を下りてその姿を現した。 「おやおや──」 声に続いて響くは冷笑、嘲笑、何でもいい。とりあえずその類の友好的とは言い難い笑いだ。 黒髪に青の瞳。銀縁眼鏡は光を反射し、下の唇は薄く笑いを浮かべている。 「貴様らが這い擦り、唾棄すべき蛮行に走る忌々しい時間は未だだと思ったが、私の記憶違いかな」 ヴィルモアにとっては見覚えの無い男。 胸に下げた聖印は見たことのないものだったが、そこに在るだけで不快な気配を振りまいていた。 人間にしてみれば、『聖なる』気配なのだろう。 その男を酷く冷めた目付きで見返しながら、ヴィルモアは立ち上がって言葉を吐いた。 「そうだね、太陽の下で臆病者共が一時の空威張りをして、闇の深さを忘れる愚かな時間だ」 一歩。棺から踏み出す。 揺れる影は黒髪の男のもの、一つだけ。 意識すれば影を作る事など造作も無いが、正体を隠す必要など今は微塵も感じないので、ヴィルモアの影は光に踊らない。 そうしてまた、この時間帯には眠っているはずの不死者が目覚めていた事に対して黒髪の男は怯む気配を見せない。 いや、そもそも男は殺気を隠しもせずに地下へと降りてきたのだ。 よっぽど自信があるか、隠し手があるか、その両方か。 ヴィルモアは目を細めて相手を観察する。 男は片手に明かりを、片手に聖印を持って小さく何かを唱えた。 途端、床を這うようにして蜘蛛手に広がった光の帯が部屋を淡く照らす。 「我らが光、全てを照らす。光は闇を駆逐する。我らが光の前に闇など無力。──よくこの時間に動けるものだな、忌々しいゴミめ」 「クズにゴミ扱いされるようじゃ今日は幸先が悪い。何のために地下で寝てると思ってるんだ?」 「ふん、光に対抗出来ない脆弱な闇は狭い地下へ逃げ込む訳か。墓穴を掘る手間が省けていいな」 「お前の墓穴? 違うか、クズに墓穴なんて勿体ない。骨までネズミに食われてきなよ」 「咆える声だけ威勢が良い。今日の幸先の心配など要らないよ。貴様に『今日』など無い」 互いに敵意も殺意も隠さずに剥き出しで響く会話。 帯の様に広がった光は、それ自体も力を持つらしく、疲労感にも似た何かをヴィルモアの内に堆積させて行った。 もっとも、その程度はハンデとしてくれてやって構わない。 何より、帯に気を取られればその隙にこの男は間違いなく顎を開いて引き裂こうとしてくるだろう。 会話も無くなり、青と赤の視線が混じるようにして見詰め合い──最初に冬空の瞳の男が動いた。 「消えろ、ゴミめ」 両手には、胸に下げたのとは違う、一般的な聖印を模した短剣が握られている。その印は太陽と光を極力簡易な形式で図した形なのはヴィルモアも知っているが、それがどうした。 ラティーシャが持っていたナイフと同じ類だとすると、掠っただけでも危うい。 何しろ大して長くない時間握っていただけなのに、それによる火傷がまだ治らないのだ。 切られる事で中を流れる冷たい血を侵食されることがあれば、すぐに滅びは全身へと広がってしまうだろう。 深さによっては、一撃が滅びへと直結しかねない。 ヴィルモアはそう見て取ると、壁に掛かっていた長剣を引っ掴み、二振りの攻撃を一つは流し、一つは受け止める。 地下の限られた空間に金属の打ち合わさる音が反響する。 「……っ」 一歩引いたヴィルモアの足が、床の光の帯を踏んだ。 足先に小さな痺れが走る。 致命的なものには成りえないが、動きが制限される事に変わりは無い。 ヴィルモアの長剣を二本の短剣でぎりぎりと押していた男の笑みが深くなった。 「神の御加護。神聖なる光、真正なる光。──貴様らの薄っぺらな闇など、足元にも及ばん」 「──お前の薄っぺらい笑いよりは厚みがあるさ。少なくともね!」 痺れを吹っ切る様にヴィルモアは大きく剣を振り払う。 純粋な力比べでいけばまだまだ、不死者であるヴィルモアの方が強い。 不安要素は男の獲物が二本であり、なおかつ人並以上に素早いという事だ。 一本ならばヴィルモアとて引けは取らない。 これほど早くなければ、二本だとしても問題は無い。 その二点が重なったゆえに問題なのだ。 魔術を放つことも出来るが、発動までの一瞬の隙を突かれる事は間違いないし、間合いを取るにはこの地下室は狭すぎる。 表に出る事も不可能では無いが──今の時間では、男ではなく日光に滅ぼされる可能性も考えられた。 ラティーシャの言った通り、若干危機管理意識に欠けていたのは否定出来ないだろう。 しかし、魔術を使えないのは男も同じだ。 「……どれだけ体力が持つかな」 光の加護は光の籠。 いまや帯は幾本もが地下室の入り口を塞ぐように伸びている。 だが、今、ヴィルモアをこの地下室に閉じ込めたところで何の意味も無いはずだ。 紅瞳を細めてヴィルモアは男の首を狙って刃を滑らせる。 男は床を蹴って後ろへ引き、尚も追って来た長剣の先を一本で弾いた。 刃先が上へと向いて、ヴィルモアの体まで一直線に空きが出る。 当然男は飛び込むが、それを上回る速さでヴィルモアの剣は振り下ろされた。 全身のバネを使い横へ避けた男とヴィルモアは向かい、再び睨み合いへと戻る。 生者である以上、活動による疲労は必ず付き纏うのだ。 不死者であるヴィルモアとは段違いのスピードで。 確かに男は素早い。光の帯でこちらの早さも殺がれている。 だからといって、決して瞬滅させられるほどのものではないのだ。 時間が経てば経つほど不利になるのは男の方である。 それなのに──。 「私の体力が尽きる前に、貴様が滅びれば済む話だ」 「随分と余裕だね、そんなに死にたい?」 「貴様こそよくこの光の加護の中で動けるものだ──その手の様に焼け爛れてくれるかと思ったら」 男の嘲笑は止まない。 打ち合うごとに、二振りの短剣は確かにほんの僅かずつ威力が落ちている。 大きく動きがある訳でもない、単調な金属同士のぶつかり合い。 その様子がヴィルモアに疑念を抱かせた。自棄になって打ち合っている様には思えない。 男はまだ何かを隠している。 それが何か分からない内には──手の打ちようが無いが。 「その手はどうした? ラティーシャか? あんな娘に手傷を負わされるとは大した事が無いな、ええ?」 「……ちょっとした火遊びだよ。アレはどうしたの? 隠れてる? 僕が怖い?」 出された名前に舌打ちをしそうになりながらも悪態を返す。 本人がどこかで聞いているのだったら、思い切り皮肉のつもりだった。 しかし、男は鼻で笑っただけだった。 ヴィルモアの予想外の言葉を放ちながら。 「何の冗談だ? あの娘は貴様が食い殺したのだろう」 「…………?」 ヴィルモアの疑念の表情は、剣戟の中に紛れて男には見えなかったようだ。 単調な打ち合いと共に男は言葉を続ける。 「指定した場所に訪れないと思ったら、森の入り口の地面に突き立っていたナイフを見付けた。──あれで威嚇のつもりだったのか?」 「…………」 「残念だが、元からあの娘には期待していなかったのでね、この程度は予想済みだ。所詮は足手まとい。死すとも怨敵に手傷を負わせて幸せだったろうさ」 応えが無いのを肯定と取ったか男は嘲笑を更に声に滲ませる。 良くこれだけ人を腹立たしくさせられるものだといっそ感心出来るほどだった。 だがそれよりも、男の言葉の方が気になった。 ヴィルモアは勿論、ラティーシャを殺しても喰ってもいない。 追い出した後で向かうのは、当然ラティーシャにとっての『味方』であろう誰かの所だと思ったのだが、この男は違うのだろうか。 いや、違うのだったら、初めから男はラティーシャの名前を出すわけがない。 だとすると、ラティーシャはヴィルモアに追い出された後、何処かへ消えたことになるが──。 「……逃げた、か」 呟いた言葉は、やはり男には届かなかったらしい。 自分の中にだけ響いたその言葉に、ヴィルモアは何処か安堵している事に気付いた。 もう一度顔を会わせて、戦う羽目にならなかった事実に対しての安堵だろうか。 剣で打ち合いながらも他人の為に余裕な事だ、と一種自虐的な笑みが走る。 その表情が気に入らなかったのか、男の顔から嘲笑が消えた。 二本の短剣を同じ方向に振り上げてヴィルモアの長剣を弾くと、体はヴィルモアに向けたまま背後へ跳ぶ。 『 一声叫ぶと、男は左右の手を振るった。 途端、光の帯が震え、収束すると、ヴィルモアの胸を目掛けて飛び来る。 同時に男は自分も駆けて、ヴィルモアへその短剣を振り落とした。 「っ!?」 前から飛び来た一本の光の帯──いまや光の槍といった方が正しいだろうそれは、ヴィルモアが咄嗟に放った闇球に吸収されたものの、他の何本かはその威力を失っていない。 そして、飛び込んできた男の短剣と踊る為に、今やヴィルモアは手一杯になった。 男の顔に笑みが蘇り、ヴィルモアは奥歯を噛み締める。 ヴィルモアの背を光が貫かんと迫ってくる。 「……『 光の神の名のもとに、という意味の聖句を吐いて男は嗤った。 死して蘇った際に、神と手を切った不死者に告げるには皮肉だな、とヴィルモアは顔を歪める。 手を返す間も無く、その槍はヴィルモアを貫いて消滅させるはずで──。 しかし、ひび割れる様な音と共に、光槍は飛び散った。 「なっ!?」 今度の驚愕の声は男のもの。 無力化した光の粒が男の顔を照らし、表情を露にする。 そうして男の声は、同じく驚愕に染められかけていたヴィルモアの意識をこれまた皮肉にも引き戻してくれた。 状況を確認するよりも、目の前の現実を打開する方が先だ。 力が緩んだ男の手から短剣を弾き飛ばし──。 「残念だったね」 耳元でそう呟いてやってから、男の腹に蹴りを入れた。 声も出さずに男は地下室の壁に叩き付けられ、ずるずると床へ倒れる。 全力までは行かないものの力は充分に篭めたので、骨は確実に何本か折れているだろう。 気配が消えたことで、男が気絶した事が知れた。 光の粒も溶けて消えたことで、再び地下室に闇と静寂が満ちる。 男が目覚める前に、止めを刺すなりなんなりしなければならないことはヴィルモアも十分承知の上だった。 だが、それよりも先に、確認しなければならないことがあった。 「…………」 先程までの喧騒の余韻か、確かめる事への躊躇か、指先が微かに震えている。 大きく息を吐いてから、胸ポケットへとヴィルモアは手を入れた。 触れた細い鎖を握り潰す様な強さで掴み、引き出す。 その先についていたはずの小さな鏡は、砕けていた。 更に指先で鏡の欠片を探る。 破片が突き刺さり、指先に血の珠を作るがそれらは瞬時に不死者の再生能力によって癒えて行く。 掌に広げられた破片は、魔力の輝きに寄って淡い光を発してはいたが──『聖なる』ものではない。 ヴィルモアに害を成すものではない。 『お礼です』 言葉の中身の割には随分と適当に渡されたそれの正体が、今ならば分かる。 抗魔鏡。 正邪には関係無い魔術を施したもので、所持者の身に危機が襲った時、一度だけ身代わりとなる代物だ。 その効果は絶大だが、高価であり、簡単に出回る、また簡単に人に渡せるようなものでもない。 「…………」 ヴィルモアは掌を握った。 破片は手を傷付けるが、癒えるが故に冷たい血が伝う事は無い。 早く、この男の始末をつけなければ──。 頭の何処かで冷静な部分がそう囁いていたが、ヴィルモアはその場から動く事が出来なかった。 |