ヴィルとラティ <4>




疲れた。
ひっじょーに疲れた。
何にって、それは勿論あの態度のでかい眼鏡の相手をするのにだ。おっといけない、元先輩。でも関係切れてるから何と呼んでも構わないだろう。面と向かっていう勇気は無くても心の中くらいでは。
情けない? ご尤もだが世間を渡るにはこの程度が必要なのだ。汚れてしまった私。
いや違う、汚れたのではなくて世間慣れした、ということにしておこう。語感的に。

ともかくそのせいなのか何なのか知らないが、今日は城までの道のりがやたら遠かった。
只でさえ話が長くて遅くなったのに、余計に遅くなってしまったように思う。
お日様はもう彼方に沈んでしまったし、光源のない道は転びそうで仕方が無い。
やっとのことで城に着いた時には、温かかったパンはとっくに冷え切っていた。

「ただいま帰りましたよー、と」

玄関で告げたところで誰も聞いてはいやしないのだが、それでもつい言ってしまう。
何となく無言で家に入るという行為は泥棒を連想させていけない。
いや、勿論良い子の私は人様の物をこっそり盗むなんて真似はやったことはないですけれども。
堂々とならやったことがあるのかとかはこの際気にしない。
ヴィルモアも既に起きているかも知れないが、玄関で言っても聞こえないだろう。
真っ暗な入り口で、手探りでランプを探ろうとしたその時。

「…………お帰り」
「うひょ!」

低い声と共に、一斉に灯りが点いた。同時に発した私の妙な声は忘れて欲しい。
即座に『それ新種の生き物の鳴き声?』とかからかいの言葉が来るかと思ったが、やけに静かだ。
声に視線を向けると、階段の上にヴィルモアの姿。
……何だろう。
ふと違和感を感じる。
眩しい程では無いが、それでも玄関は光で満たされているというのに、彼の表情がひどく翳っている様に見えたのだ。
貧血か、と一瞬思うが、昨日も血は飲んできたようだからそれは違う。
一日で貧血起こす様なヴァンパイアじゃさぞかし大変なことだろう。
彼は階段を半ばまで降りて来ると足を止めた。
色褪せた絨毯をしいた床ばかりを見詰めていた視線が、そこで初めて私のほうを向く。

──正直、寒気がした。
赤い色には何も変わりが無いが、その奥から光という物が一切消えていた。

「ええええと、すいませんちょっと世間話的に井戸端会議で話し込んじゃって」

とにかく沈黙を埋めなければならない気がして、私は早口でまくしたてる。
それにヴィルモアが反応する様子は欠片も見えなかった。ただ、無言で私を見ている。
一番最初に出会った時でさえ、これ程怖くは無かった。
怖い? 
そこで私はようやっと違和感に気付く。
そう、怖いのだ。
今日の天気とかパン屋のおじさんがどうだとか、旅人が騒ぎを起こしたらしいとかそういったどうでもいいことまでぺらぺら喋っていたが、それもやがて無くなる。
静かになった所で、ようやく彼が口を開いた。
いや、そもそもヴィルモアは話なんて聞いておらず、何から口に出すかを考えていただけなのかも知れない。

「ねえ、ラティーシャ?」
「……はい?」

彼が私の名前をきちんと言うのは初めてだ。
それだけ犬犬言われてきたということだが。いやそれはまあ良くないが良い。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」

言って紅の髪のヴァンパイアは笑う。……目は確実に笑っていなかった。
嫌な予感が、三度目の来襲をかけてきた。手土産くらい持って来いと言いたいところだが、嫌な予感の手土産なんて貰いたくない。嫌な予感の手土産といえば不幸な知らせ。
ああ何て馬鹿馬鹿しい連想。
声は、異常なまでに優しいその調子と違って、硬質的な響きを持っていた。
──どうして彼は玄関にいたのだろうか。
ようやく思考がそこまで辿り着いた私の鼻に、何かの匂いが届く。
知っているけれども、知らない。何か異質な匂い。

「……何でしょう」

私は震えそうになる足を意地と根性をフル動員して押さえ込む。見えない精霊さんちょっと助けて下さい。私のプライドのために。ほんの少し、足を押さえてくれるだけでいいんです。
お前のプライドなんか知らねえよ馬鹿なんていう精霊は悪魔に貪り食われてしまえ。
それでも下らない考えを巡らせる余裕がある分、確かに私は神経が図太いのかも知れなかった。
しかし、その余裕も次の瞬間に失せた。

「これ、何?」

穏やかな言葉とは裏腹に、鋭い光を走らせて私の目の前の床に何かが突き刺さる。
それが何かを確認した途端──顔が強張ったのが分かった。今度はきっと、ヴィルモアも見逃してはいない。
石の床に突き立ったそれは、部屋に置いていたはずのナイフだ。
そうしてようやく、私は異臭の正体を知る。
ナイフを投擲した後で無造作に下げられたヴィルモアの手が、焼け爛れていた。
当然だ。七日間の間聖水に浸されて、更にしっかりと浄禍(リリティク)を受けているのだ。

「……よく持てましたね」
「ちょっと痛かったけど、何とかね」

答えとは言えない私の呟きに、ヴィルモアは薄く微笑んでみせる。
嘘だろ。が、正直な感想。
聖印を模したナイフ、これは大抵どこの教会でも魔除け兼、邪気払いとして置かれているから大したものではない。多少敬虔深い一般の方々も持っている。
だが、この武器に授けられた浄禍(リリティク)は並のものじゃない。
高位術者が特に念入りに儀式を施した特一級レベルだ。細かいことは私の専門じゃないので知らないが、ともかく面倒な素材と面倒な手順と面倒な人手がいることだけは分かっている。
そうしてそれは、触れるだけで、不死者にはダメージに成り得る。
ヴィルモアはそんなものを、今までの会話の間もずっと握っていたのだ。
呻き声一つ漏らさず。笑みさえ作って。
人間の敵、最凶のアンデッドロード、不死者の頂点。
不穏な字を持つヴァンパイアの力の一端を目にして、身が凍る。
いっそ文字通り凍ってしまった方が楽なのかも知れない。

「──そっちはまあ、いいや。分かるから。……ねえ、ラティーシャ」

私の名を呼ぶ声はあくまでも静かに。しかし私にも分かる。彼が怒っている事くらいは。幾ら鈍くても何でも。分からないとしたら、何でヴィルモアが私を今すぐ引き裂いてその血を啜らないのか、ということくらいだ。
ランプの炎も激しく踊る事は無く、静かに赤く玄関を照らし続ける。

「ねえ、ラティーシャ。僕を殺す隙を伺ってたの?」

彼は階段の半ばから動かない。先程から笑みが張り付いたままだ。
空気が密度を増す。それ自体が粘ついている様に呼吸が上手く出来ない。
昼間、イーサクロスに出会う前の気分の軽さは、既に年単位で昔のことに思える。
下手すると走馬灯で見る羽目になるかも知れない。そんなもの見る時間があるかどうかも怪しいが。
ああでも走馬灯でまであの不景気な眼鏡ヅラを見たくないんだがどうしよう。しかも死ぬ一瞬前に残る顔があれでしかも嘲笑ってやがったりしたら死ぬに死にきれないじゃないか。
それにしたって今日の運の悪さは破滅的だ。やっぱり教会の前で不謹慎な事を思ったからか。何て狭量なんだ畜生め。
今度のこれは、余裕ではなく純粋に混乱、というか切羽詰っていたから浮かんできた思考である。
根がこういう体質なのだろう。救えない。信じられないヘマをする。
もしヴィルモアがこちらに歩いてきていたら、笑い出すくらいはしたかも知れない。勿論楽しくてではない。

「──気付かなかったのは僕の油断だね」

穏やかな声が逆に怖い。ダッシュで逃げたい気分もするが、背を向けるのが怖い。
何だこの修羅場的展開。これから血の惨劇へシフトする可能性も否めない訳だ。
ヴィルモアから目線を離すことも出来ず、私はただ無言で彼の言葉を聞く。
切れるか切れないかまでに張り詰められた緊張の糸は、ヴィルモアが突如くるりと背を向けたことで消失した。
酷く呆気ない緊張の糸切りばさみ。
焼け爛れた手を垂らして、彼は振り向かずに告げる。

「行けよ、見逃してやるから。代わりに二度と視界に入ってくるな」
「……は?」

突然の緊張の緩和──それでも普段の比ではないが、ともかく緩んだ空気とその言葉に私は声を漏らした。
呼吸はだいぶん楽になったけれども、深呼吸が出来るほどではない。
ヴィルモアは反応することなく階段を上がっていく。私のいる所まで来る事もなく。
意味を理解するまでに、少々時間が要った。
気がつくと、口から言葉が滑り落ちていた。

「……ヴィル、あなた、馬鹿ですか」

ぴくりとヴィルモアの体が震える。
うわ。馬鹿は私だ。言っておいて何だけれども次の瞬間には後悔。
九死に一生を得るはずがさっくり殺される確率を上げてしまった。呪うべき性格だ。
しかし、彼がした反応はそれだけだった。変わらず背を向けたまま階段を登っている。

「ヴィルモア、だ。──ああ、馬鹿なんだろうね」

その声音に含有されていたのは自嘲。
私は床に刺さっていたナイフを両手で何とか抜いて、腰に戻す。
このままヴィルモアを刺す? 冗談じゃない。私だってそこまで向こう見ずかつ馬鹿じゃない。
けれども、言うべきか言うまいか迷って、私は結局また言葉を口にした。

「……ヴィルモア、そのままだとあなた、殺されますよ」
「君の仲間に? それとも君に?」
「それは……」
「……どうでもいいや。さっさと消えて」

会話を打ち切ったヴィルモアに、私もそれ以上の言葉をなくして口を噤む。
扉の奥へ消えたヴァンパイアの姿を見送り、小さく溜息。
腰のナイフが重い。大した重量なんてないはずなのに。
灯っていたランプの明かりが一つずつゆっくり消えていく。これも出て行けという意思表示だろう。
私はしばらく玄関に立ち尽くし──最後の灯りが消える前に、城を後にした。

「……でも、私のことは殺さないんですね」

誰に向けたものでもないその呟きは、鬱蒼とした森に吸い込まれる。
暗い暗い夜天を仰ぎ、私は一度立ち止まると城を振り返った。
月光の元、アンデッドロードの城は黒々とそびえ立っている。
黒く暗く。
明かりも無く。

「私は──」

言葉が止まった。
片手で顔を覆うと、街へ向かって歩き始める。
腰のナイフは、まだその重さで存在を主張していた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



明け方近く。
結局その日は獲物を探しに出かけなかったヴィルモアは、眠る気が起きず客間のソファに腰掛けていた。
そもそも客など訪れないこの城では、どの部屋も自室に等しい。
頭の中では言い放たれた言葉が繰り返されている。

「『馬鹿』、ね」

彼は自分の右手を挙げ、焼けたそれを見詰めた。
強く握り締めると、ぱらぱらと皮膚の残骸が落ちて来る。
この程度では苦痛に悶えることなど無い。何故なら彼は生きながらも死者なのだから。肉体的な苦痛などまず味わう事は無い。
それでも再生には多少の時間と血液がいる。大変だ、とまでは言わないが些か面倒だ。
しかもこの傷、どうにも再生速度が遅い。
腐敗が一部分からだんだんと広がっていくように、傷が自らその支配する部位を広げようとしているのだ。もしヴィルモアの力が足りなかったら、侵食速度の方が勝っていて緩慢なる滅びへと繋がっていただろう。
忌々しいほどに入念にかけられた浄化の力。禍事を払う力。
禍事をまとっているとしたら、まとっている本人自身も禍事となるのだろう。
それなのに、こんな遠回しな方法でじわじわと滅びに向かわせる連中は「聖なる」ものとされる。

「そっちこそ馬鹿馬鹿しい」

浄化。何をもって浄化だ。
どの立場からの『浄化』だ。
生きる者から見ての浄化。死した者から見ての滅び。

「『殺されますよ』」

告げられた言葉は皮肉なのかと思った。
既に死んでいる相手に向かって『殺される』とは、面白くもない冗談だ。
もっとも、告げた相手はあまり物事を考えて喋る性格には思えなかったから、ただ自分の感覚に合わせて言っただけだろう。
何であれを殺さなかったのかと問われれば、返答に詰まるかもしれない。
ただ拾った犬に少しだけ情が移っただけだ。
偽りの睦言や微笑を向けなくとも会話出来る相手が久々だっただけだ。
そう答えるかもしれない。問う相手のいない質問に、聞く相手のいない答えを返す。

ヴァンパイアには終わりがない。
不死者であるが故に死者として安らかに眠る事はない。滅ぼされぬ限り、世界が終焉を迎えぬ限り、彼らは屍の上に王者として君臨する。
低級なる死者は駒に過ぎず、全ての生者は糧に過ぎず、生ける死者は互いに馴れ合うことも無い。
生者を超越した力と終わりなき時間の代償は永久の孤独。
その程度かと鼻で笑って血を咲かせる者もいる。
苛む孤独に耐え切れずに自身を手放し狂った哄笑を上げる者もいる。
ヴィルモアはどちらでもない。
鼻で笑う気概までは持ち合わせていないが、狂うほどに繊細な神経はしていない。
だからこそ時折、失ったはずの情が絡んで合理的にと叫ぶ理性を縛り付ける。

「………………」

彼は天井を仰いだ。
窓の外は既に仄明るい。
ヴィルモアは首を振って立ち上がった。





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