ヴィルとラティ <1> バールムク大陸の端っこ、ケデャスの街からしばらく先、名も無い森からお伝え致します。 昼間に訪れてもうっかり迷ってしまいそうな森は、狼の遠吠え響くわ鳥の鳴き声聞こえるわ、風が吹いて梢が鳴るわで、自然に満ち溢れています。 私の今の状況では満喫できませんが。 突然ですが私、人生最大の危機をお迎えしている最中です。 真っ暗な夜道、女一人。 ここから導き出される推論を各自述べてみて下さいよ。 私の暇つぶしの為にでも。 ちなみに、私の他には今のところ、人っこ一人犬っころ一匹見当たらない。 あ、蝙蝠だけはちょっと飛んでる。 だからどうした。 まあ要するに、叫ぼうが暴れようがどうにもならない状態。 そして私は特殊技能、いわゆる超能力とか魔術とか拳法とかの類は習得して無い。 棒切れ程度ならば隣に延々続いている茂みから調達できるかも知れないけれど、それが何になるわけでもない。 つまり非常時においては自力ではほとんど何も出来ないという事実だけが目の前に提示されてる訳だ。 で、さっきから妙な気配──気配だけで姿は見えない──も感じているわけで。 ──さて、どうしよう。 暗闇で私の中の不安だけが増幅されていくが、これもまたどうしようもなく。 こんな人気の無い道を選んだのも、一人で彷徨っているのも、私自身にはどうしようもないことのせいなのだ。 どうしようもないことが重なっていまの状況になっているとしたら、それはつまりどうしようもないという結論にしかならない。 運命は信じているような信じていないような私だが、これは運命のせいにしても良かろう。 いや、もしここで死ぬとしたら運命には徹底反抗したいと思うけれども。 そんなことを考えて地面に向ける集中力が疎かになっていたのか、ついには石に蹴躓いて転ぶ始末。 畜生、恨んでやる石め。未来永劫呪われるがいい。石め。 顔は何とか死守したものの、土と体がこんにちは。あ、いや、こんばんはか。今は。 膝と肘を擦りむいたのかじんじんと痛む。泣きてぇ。 今世界を呪ったとしても許してもらえると思う。多分。そんな訳で呪おう。 消毒液は持っていただろうか、と思うよりも先に、背後から足音と気配が近付いて来た。 砂利を踏み締める音が耳に届く。 立ち上がることも忘れた体が、ぎりっと緊張するのが分かった。 さっきまでは、私から見える範囲に人などいなかった。 夜目が物凄く利くわけではないが、それでもすぐに近付いて来られる距離にいたならばさすがに気付く。 踏まれた石が上げる軋みという悲鳴が、私のすぐ傍で止まった。 地面をいっぱいに映した視界の端に、綺麗に磨かれた黒い靴が入り込む。 先ほどからの、奇妙な気配の主だろうか。 そう思って、顔を上げて相手を地べたから観察してみた。 紅髪の、男。 即座に理解できたのはその点。 濃い紅の髪は短く、双眸は鋭い。 年の頃は二十歳の後半程度だろうか。 そして、ここが重要だが──その瞳が闇夜でも赤く赤く見えるところを見ると、恐らくこの男は、ヴァンパイア。 人の血を糧とし、人の恐れを肴とする、最凶のアンデッドロード。 何だ畜生め世界は私に恨みでもあるのかと問いたくなる。 さっき転んだときに呪った仕返しなのか。そうなのか。 鳥の鳴き声さえも絶えた空間は、倒れた女と傍らに立つ男という妙な構図を持った。 男はなかなか口を開かない。 それが余計に風景の温度を下げていく。 鮮血の様に赤い瞳の向く先は、ゆっくりと私の上に下りてきた。 色の薄い唇から、鋭い犬歯が覗く。 「こんな所に、人間がいるとはね……」 響く声は冷たく夜風に冴え渡る。 勿論、この男に見覚えは無い。 そもそもヴァンパイアに親しい知り合いなんてのがまずいない。 獲物を探しにでもいく途中だったのだろうか。 そういえば先ほど蝙蝠が飛んでいた気がする。 何しろ、ここは人気の無い道なんで、日常的に獲物を狙うにしては実入りが悪かろう。 私の様にふらふらと歩いている旅人がいた場合を除いては。 そうすると私はたまたまヴァンパイアが通りがかった時にたまたま人気の無い道をあるいていた不運な人。 ああなんとも世界とはうまくいかないもの。呪われてしまえ。三度目だが。 「迷ったのかな? それとも何処かへ行く途中? ……まあ、どうでもいいんだけど」 言葉が無い事に倦んだのか、男が首を振る。 しかし、どうでもいいと言われても私にだって言い分はある。 このまま流されてヴァンパイアの食料になるのはごめんだ。 崖っぷちに立たされた人間特有の決意を固めて息を吸い込む。 残った意思をフル動員して男に双眸を向け、一言。 「すいません。……食べ物……ありませんか」 「──はい?」 玲瓏とした声が呆気に取られたように聞き返してきたことなんて、私にはどうでも良かった。 ヴァンパイアの腹と精神を満たしてやる余裕なんてなかった。 ──何しろ、私自身が人生最大の危機、餓死と目の前でご挨拶中だったのだから。 で、現在。 「うううううすいませんああ三日ぶりのまともなご飯」 「いや……いいんだけどね、どうせ僕は食べないから」 私は道っぱたでヴァンパイアからパンを恵んでもらうという世にも珍しい体験中。 人間最後まで諦めてはいけない。餓死寸前で最悪のアンデッドといわれるヴァンパイアに出くわしたとしても、こんな幸運もある。 や、多分滅多に無いと思うけど。 色々気を削がれたらしい男は私に倣ってか岩の上に腰掛けていた。 夜に野外に出ていても寒いとは感じない時候、風が微かに頬と地面の草を撫でていく。 男にしちゃあ随分と綺麗な顔だが、ヴァンパイアは一般的に容貌が優れている。 彼らは、冥府の女王ヘハディウムの加護によって生ける死者となった者だといわれているので、多分ヘハディウムが面食いなのだろう。 ……もしかして私はかなり罰当たりな事を思ったのだろうか。まあいい。 「とりあえずこの幸運を神様に祈ります」 「昇天するから止めてくれないかな」 至極真面目に言ったら、疲れた声で返された。 ちなみに食わないのに何で彼がパンを持っていたのかというと、家の鳥にやるためらしい。 生身の鳥を飼ってるのかー、と無駄なところで感心する。 もはもはパンを食べていたら、彼の方が声を掛けてきた。 先ほどはとても冷たい声に聞こえたが、食べ物を貰えたせいかその中にも何となく人情が混じっている気になる。 現金? そりゃそうだ、人間なんてしょせんそんなもんだ。 「で、何で君こんな所で行き倒れてんの」 「ヴァンパイアのお兄さんこそ何でこんな道通ってるんですか」 「──ヴィルモア。ここ、僕の帰り道」 「ヴァンパイアとあんまり語感変わらない気もしますねその名前」 「……君、人の話聞かない奴でしょ」 「ヴィルモアさんもう人じゃないでしょ」 「………………」 私の真っ当な突っ込みにヴィルモアは頭を抱えた。 どうやらこういうタイプの会話には慣れていないらしい。 かなり上質の服を着ているが、生前から身分が高かったんだろうか。 もっとも、死者となってしまえば身分は大して意味を持たないだろうが。 何しろヴァンパイアは無駄に強いが、ゾンビやスケルトンほど大量にいるわけではない。 当たり前だ。ゾンビやスケルトンが墓場に沸くのと同じペースでぽこぽこヴァンパイアが沸いたらあっという間に人間全滅である。 しかもゾンビレベルならば結構放置もされるが、ヴァンパイアとなればほぼ確実に討伐の対象。 自然と弱い者は淘汰されていくので、彼らの世界では強さと、生きている……死にながら『在る』長さこそが階級を別つ。 長々述べたが早い話ヴァンパイア世界も実力主義で生前の身分なんざ二の次ってことである。 彼は聞きなおすのは諦めたのか、顔を上げると溜息と共に言葉を吐き出した。 「……君、怖がらないんだね」 「ヴィルモアさんこそ『はっはっは、お前の血を吸ってやる』とか言いませんね」 「食事は済ませたし、そんな餌付けした犬を蹴るような真似はちょっと」 餌付けした犬って私かい。 突っ込もうとしたが丁度口の中にパンが入っていたので止めた。食べ物を吐いては勿体無い。 確かにそう大した変わりは無いかも知れないのだが。 彼は少々投げやりな気分になったのか、組んでいた足を投げ出して空を仰ぐ。 紅の瞳が、夜天を映して色濃くなった。 「──仕方ないから君の街まで送ってってあげるよ。ここで放置してまた行き倒れられるのも何だし」 そしてやたら親切な台詞を吐いた。 私の中のヴァンパイア観が変わりそうだ。 もっとも、彼にしてみればそれこそ人間が犬に餌やって飼い主に戻す感覚なのかも知れないが。 犬は嫌いじゃない、だけれど完全に同レベルってのもそれなりに悲しい。 私はパンの最後の一切れを口に押し込んで慌てて左右に手を振った。 「あ、いえ、その……私の街ってのは……」 「何? 遠いの?」 「遠いっていうか……そもそも私、家が無いんで……」 「旅人? それにしちゃ弱そうだけど、一体仕事、何してるのさ?」 ヴィルモアが何気なく問うた言葉に、私は少々詰まる。 言うべきか言うまいか、逡巡。 僅かな沈黙に何かを感じ取ったか、彼は少し声を落とした。 「……人に言えない仕事な訳?」 「いえ、そういうお仕事っていうか……今、その……無職で……」 顔を逸らしてぼそぼそと私は呟き返す。 情けないからあまり言いたくは無かったのだが、恩人、もとい恩ヴァンパイア──語呂が悪い。恩アンデッド。更に悪い。 ともかく、恩のある相手に嘘をつくのもな、と思ったのだ。そんな私は正直者。ちょっと嘘。 「何、辞めさせられたとか? トロそうだしね君」 正直に答えた事を後悔した。 ぐっさりと私の胸に暴言という鋭い短剣を突き刺したこのヴァンパイアに呪いあれ。 「……確かに解職されたんですけれども」 「ああ、やっぱり。で、その鈍さを極限まで生かした姿が今の行き倒れって訳だね」 「好き勝手言ってませんか」 「君、人の話聞いてないんだからこれも聞き流してよ」 綺麗な顔にしてやったりという微笑を浮かべて男は肩を竦める。 確かに私は解雇されたが、鈍いというのは心外だ。 「ええ、聞かなかったことにします。例えパンをくれた親切な恩ヴァンパイアが腹黒暴言野郎だとしても感謝します」 「………………」 微笑がちょっと引きつった。よし、同率首位。何が。 ともかくやられたことはやり返す。『痛みを甘受する事など無い』遠い昔の王が唱えたこの言葉が私のモットー。 私のモットーは都合よく変わるが、それも人間ゆえだ。許して欲しい。 紅瞳の中に私が映るが、その長い黒髪の輪郭は夜の闇と同化しいまいち判然としない。 存在がぼんやりとしているということは怖いことだ。 「──君、結構神経図太いでしょ」 「私の神経は乙女の髪の如く細いですが何か」 「筋肉馬鹿の太股くらいあるんじゃないの」 微妙に不毛な会話が続けられる。 こんなことをやってて朝になってしまい、この男が灰になったらさすがに寝覚めが悪いが、幸い夜はまだしばらくは明けない。 「……ともかくまあ、宜しければケデャス以外の街で、この辺りに街は無いですかね」 「ケデャスじゃ駄目なの?」 「解雇された街に戻って傷心を気取る余裕が無いもので」 余裕が無い、というのは精神面でもそうだが金銭面でもそうだ。 特別に優れた能力のない私ではなかなか雇って貰えなどしないだろう。 そもそも私はあの街では余所者だ。コネも何も無い。何処へ行っても余所者ならば、新しい街で新しい気分になってみるのもいいだろう。 ……まあ、その街で雇って貰えなければ意味が無い訳だが。 しかし、その言葉に綺麗な顔のヴァンパイアは何事か考えるような仕草をした。 そして、犬歯を僅か覗かせながら言う。 「──ケデャスじゃないのだったら、レーアントが東にあるよ。更に行けばシャンドルフィアも」 「レーアント……に、シャンドルフィア……」 確かレーアントは大して大きくない街だったが、シャンドルフィアは海に面した大都市だ。 港もあるため、人の往来が激しく、別名が『出立の街』。 水平線の果てから朝日が昇り、街を照らすその様子が美しい、との定評もある。 もっとも、目の前にいる夜中にしか動けないヴァンパイアには縁の無い、どころか縁を結びたくも無い話だろうが。 とにかく、人生の再出発としてはいいかも知れない。 今すぐ出発すべきか、それとも夜明けを待ってから出発するか少々迷っていると、男が口を開いた。 「ところで君、掃除出来る?」 「は?」 全く関連性の無い台詞に一瞬思考が止まった私に、ヴィルモアは当然の様に繰り返した。 「掃除。意味分かるよね?」 「馬鹿にしてますね今のは明らかに。また話を聞いてないと言われる前にお返ししますがそりゃ出来ますよ」 皮肉は今度は効果を発揮しなかった様だ。 男は腕を組み、色素の薄い唇に指を当てる。無駄な色気。 ヴァンパイアに襲われるどころか、自らその身を捧げる事を望む人間がいるのも何となく分かる気がした。 しかし私は基本的に自分第一なので、幾ら色気と美貌と微笑を振りまかれようがそんなのは断固お断りする。 「僕の城、この先にあるんだけどさ」 そしてまた話は唐突に切り替わる。 話題のターニングポイントが分からない。 というか今さらりと『僕の城』とか言ったよこのヴァンパイア。 「動物類は僕の気配を感じ取ってくれるから滅多に近付いてこないんだけど、人間はそうはいかないんだよ」 「色々鈍い癖に好奇心ってのを持ってますからねぇ。人間」 「放っておくと、勝手に住み着いたりするしね」 ヴァンパイアは昼間はまず活動しない。出来ない。昼間は寝ているものと相場が決まっている。 寝ている内に誰かが家に入り込んでたら、そりゃあ嫌だろう。 だけれどそれに何の関係があるのか。 問いを形にする前に、ヴィルモアは首を振った。紅の髪が夜に舞う。 「そんなことにならないように人間の管理人を雇ってるんだけど、今の人が随分年老いてしまってね。辞めたいって言い出したんだ」 「加齢は人間ではどうしようもないですからね」 「──で、どう?」 「何がですか」 三度目の唐突。 それは質問だということは分かったが、何を問うているのか。 四度目の唐突は軽く上から降って来た。 「管理人、やらない? 君は若いからしばらく次の人探さないでも良さそうだし、ちょうど職無しでしょ?」 沈黙。 それを沈黙と認識していたのは私だけかもしれない。 男はただ単に回答を待っているだけだっただろうから。 パンを一切れ口に入れ、しっかり噛んで飲み込むことのできる時間が過ぎてから私は返した。 「えー、つまり、お仕事のお誘いってことですか?」 「君、今くらい時間かけないと言葉の意味を理解出来ないくらい頭悪いの? それとも馬鹿?」 「両方同じ意味じゃないですか……じゃなくて、何でまた」 「思い出したから。──後は、僕の正体分かってても怖がらないどころか平気で言い返す神経だからかな。自分の事を怖がってる相手と暮らすなんて疲れる真似はごめんだからね。僕は」 やや大袈裟が過ぎる肩の竦め方。 それが真か偽か、判断できる能力は私は持ちえていない。 「難しい事を頼もうなんて思っちゃいないよ。適当に掃除して人が来たら適当に追っ払ってくれればいい」 ──この場合の『適当』が、『それなりに』という意味なのか、『適切に』という意味なのかも判別しかねる。 ただ、私が分かる事といえば。 「……本気で?」 渡りに船。 シャンドルフィアに行かずとも船が来た。 その船の主は死人なのだから、幽霊船なのかも知れないが。 幽霊船の船長──船長という単語が決定的に似合わない線の細い男は、やはり明るい海より鬱蒼とした森に似合う雰囲気で笑った。 「城はこっちね」 ヴィルモアは先ほどの私の問いを肯定と受け取ったらしい。 座っていた岩から立ち上がり、森の更に奥を指す。 さっさと歩き出した彼に、私は慌てて続き、その背に声をかけた。 「……ヴィルモアさん、ヴァンパイアの癖に人がいいですね。いや、この場合ヴァンパイアがいいのかな?」 「どうでもいいよ。ついでに『さん』要らない。ヴィルでいい」 「了解しました、ヴィル」 よくよく考えれば、この相手はさっきの様に蝙蝠に姿を変えて飛ぶことも出来るのだ。 それなのに道を歩いているという事は、私に合わせてくれているのだろう。 ──冗談抜きで、いいヴァンパイアだ。 よくこれで、今まで討伐されないで在り続けているものだ、と思う。 紅の髪と瞳の持ち主は、ちらりと私の方を振り返って告げる。 「……後は、さっきも言ったけど、餌付けした犬を荒野に蹴り出すのも何だしね」 「やっぱり犬扱いですか」 「餌貰ってついてくるんじゃ犬と変わりないでしょ」 「正論に思えて凄く理不尽な台詞ですよねそれ」 前を歩くヴィルモアの肩が震える。笑っているのだ。 「不満なら番犬とでも呼ぼうか」 「言い忘れてましたがラティーシャといいます」 「……じゃ、ラティ犬」 「どうしても犬をつけたいんですか」 「さ、夜が明けると僕が面倒だから急いで」 私の言葉を打ち切り、足を速めるヴィルモア。 ただでさえ足の長さが違って不利なので、私はほとんど小走りになる。 そして私は思った。 これじゃ、やっぱり飼い主の後についてじゃれる犬と大して変わりないんじゃないかと。 そして餓死しかけてヴァンパイアに助けられて更に再就職先まで見付かった日にしては、些か盛り上がりにかけるのではないか──と。 前を歩く綺麗な生きてる死人は、そんなことは毛ほども気にしていないようだった。 |