部屋には一人の男が立っていた。
身にまとう黒いローブは、まるで男の体の一部分の様に馴染んでいる。 男は待っていた。 そう、世界が今、必要としている人物を。 救世主を。 「今度こそ……」 石造りの地下室を淡く照らし出す魔法陣の光が、赤から青、そして白へと美しい余韻を残して変化していく。男の、年月を皺という形で刻んだ顔に、不安と、そして押さえきれない期待の色が滲み出る。 唇を舐めて湿らせた男は、杖を床と垂直に立てると、とても言葉とは思えない鋭い声を発した。 しかし、それこそが、召喚の言葉。古より伝えられし、異界との扉を開くための鍵。 長い間、大切に伝えられ続けていたそれが、今使われた。 「……おお……!」 魔法陣から溢れた光の奔流に、男は思わず手を顔の前に翳した。 幾度か瞬くだけの短い時、溢れた光が急速に収まった後──魔法陣の上には、一人の人間が横たわっていた。 男は静かに近寄って、その人間を見下ろし、そして僅かに瞠目する。 横たわっていたのは、どう見ても男の三分の一か、それ以下の年数しか生きていない様な若い娘だったのだ。 しかし、男は少々驚きはしたが、焦りはしなかった。 救世主が『勇者』ではなく『聖女』だったというだけの話だ。 伝えられている救世主の話の幾つかは、聖女が起こした奇跡のものである。問題無い。 「ん、う……」 軽いうめき声を上げて、娘が──聖女が目を開いた。 ぼんやりとしたまま数度瞬いて、ゆっくりと身を起こす。状況がわからないのか、顔にかかった茶色の長い髪を払いながらも不安そうに部屋を見回している。 聖女の視線は、男の姿を認めて止まった。 魔法陣の光が消えた後は、燭台の光しか無くなった部屋でも、娘の顔の不安が色濃くなったことくらいは男にも分かった。 「目覚めたか、客人よ」 「へ、あ、あたし……?」 だからこそ、びくりと震えた娘に対する口調を男はなるべく穏やかなものに変えた。 指で自分を指す娘の行動に頷き、先を続ける。 「異世界からの客人よ、私の名はバルロア。貴女を招いた者だ」 「──……は、異世界?」 「そう、この世界は未曾有の災厄に見舞われている、即ち」 「いやちょっと待って今何時!?」 「その通り、今何時……って、は?」 話の途中で顔色を青くした娘の台詞を肯定しかけた男──バルロアは問い返した。 その間にも娘は忙しなく壁へ目を走らせて、『トケイー!』などと叫んでいる。 トケイが何かは分からなかったが、ともかく娘は混乱しているのだろうと踏んだバルロアは咳払いをして続けた。 「客人、災厄というのはつまり魔王の君臨──」 「いやいやいや魔王がどうとかじゃなくて時間時間! 時計ないのこの部屋!? っていうか何処ここ!?」 「落ち着け。先ほども述べたがここは貴女の存在する世界とは異なるせか」 「ね、あたし夢見てるのもしかして寝ちゃってるのヤーバーイー! マジヤバイから起きろってー!」 「夢ではないっ!」 頭を抱えて叫び続ける娘に、さすがの忍耐力も切れて大声を出す。救世主相手に怒鳴るのは不敬だったかも知れないが、今の状態では会話すらも成立しないのだから仕方があるまい。 黙った娘に、もう一度咳払いをしてからバルロアは声の大きさを元に戻して告げる。 「だから、客人よ。貴女は異世界から召喚されたのだ。我らが世界の救世主として」 「……きゅーせいしゅ?」 「そう、貴女は魔王を打ち倒すために仲間を求めってうおっ!?」 「だーかーらー、今何時なんだってば!? あたし早く行かないといけないんだって!」 弾かれるように立ち上がって、胸倉を掴んだ娘に、バルロアも妙な声を出す。ローブを掴まれて揺れるバルロアに、娘はなおも言葉を重ねた。 だんだん、と石畳を踏みつける音が耳に届く。 「折角取れた『シューティングスター』のコンサート最終日のチケット無駄になるでしょ!? この為に学校早引けしてきたんだから早く準備しないと間に合わないんだってば、ほら何時!?」 「しゅ、しゅーてぃんぐすたぁ?」 聞き慣れない単語を繰り返すバルロアに、娘は鬼気迫った顔でさらに揺さぶる力を強めた。 既に『いい年』といわれる事に何の異存もなくなっている年のバルロアは意識が危うくなりかけて、慌てて娘の手を引っぺがす。 剥がされて体勢を崩した娘は、勢いで尻餅をつきながらも睨んでくる。 「あー、もうっ! 異世界だろうが魔王だろうがなんだろうがどうでもいいからさっさと目を覚ますなり家に帰るなりしたいのよあたしは! あんた出来るなら早くしてよ一刻もっ!」 「だから貴女は救世主で」 「他人の都合も考えないで役割押し付けてくる奴なんか知らないわよほら呼び出したなら返せるでしょさっさとっ!」 「魔王はっ!」 怒涛の様に紡ぎだされる言葉に若干圧倒されながらもバルロアも負けじと声を張り上げた。 娘は茶色の髪を苛立たしげに掻き毟ると石畳を手の平で叩く。 「知らないわよ自分らでなんとかしなさいよほら早く愛しの一史君がステージに立ってるところ見られなくなるでしょ! 一史君が歌ってるのを見るのがあたしの人生における一番の喜びなんだからふざけてんじゃねぇよ!」 「ふざけとるとは何だ小娘がっ!」 「じゃあそんな小娘に訳わかんないこと押し付けてんなよ! はーやーくー、して!」 苛立ちが頂点にまで達したのか、娘は床に置いてあった火の点いていない燭台を振り回し始めた。 すっかり頭に血の上ったバルロアも机を叩いて叫び返す。 「ああ燭台を振り回すなもう帰れっ!」 「帰せっ!」 「帰すわっ!」 先ほど尻餅をついたせいで、再び魔法陣に娘は戻っている。 本来ならば、魔王を打ち倒した後、祝福の中で唱えられるはずのその呪文は──石畳の狭い部屋に響いた。 カッ、と魔法陣は白い光を放ち、そして美しい虹色を空気に撒く。 それが収まった後には──今度は、何もなくなっていた。 「……はぁあああ……」 床に打ち付けられて曲がった燭台を拾い上げながら、バルロアはさっきとは打って変わって静かになった室内に遠慮無く溜息を吐く。 これで何人目だろうか。 人の形をしていなかったので即座にお帰り頂いた例もあるが、大抵はバルロアやこの世界の人間と同じか、よく似ている外見だった。 召喚する際に織り込まれている魔術のお陰で、言葉こそ通じるものの──先ほどの娘と同じく、意思の方が通じなかったのである。 『魔王なんかいるわけ無いじゃん』と鼻で笑い捨てた男児、『人間なんて滅んだ方が世界のため』と肩を竦めた暗い青年、『家族がいるから危ない事は……』と首を振った男。 どれもこれも、救世主には程遠かった。 いい加減、大事に伝えられてきた召喚の呪文もその正確さが疑わしくなってくるというものである。 何度目か分からない召喚を試みようとしたバルロアはふと、先ほどの娘の言葉を思い出した。 『自分たちでなんとかしなさいよ』と。 ……自分たちでなんとかするにしても、こちらの人間は異世界から来る救世主だけを頼みにしているのだ。その状態で何が出来るだろうか。 バルロアは天井を仰ぐ。この部屋は、王城の地下室だ。 王と王妃が、救世主の召喚を心待ちにしているだろう。大臣も、兵士長も。 誰一人、自分で行こうとはしていない。 ──自分たちで守る事すら出来ない世界を、無関係の第三者を引きずり込んでまで存続させる意義は? それは人に寄って幾つもの答えは出てくるのだろうが──少なくとも、バルロアは疲れた。 燭台を戻そうとした手を離し、がらんと転がるままにする。 もういい加減にして、役を引こうと首を振った。 「……歌っているのを見るのが最大の喜びか……ああ、サンテールの街の歌姫でも見に行くかな……」 世界が危機に瀕しているからこそ、栄える地域もある。 例え終わるにしても、最後まで賑やかに楽しくいたいと思う人間がいる限りは世界に賑やかさが消える事は無い。 伝え聞いた類稀なる美声の歌姫の噂を思い出し、バルロアは城を出た後の行き先を決定した。 そして、『異世界から来た』のではない救世主が世界を救う事を微かに望みながら、バルロアは地下室の扉を閉めた。 |