退廃サイコの三ヶ月 [終焉を迎えた三ヶ月目] それから更に一週間。 優子はいつも気分が悪そうだった。 あれからも何度か『俺』から手紙を送りつけられたせいで、気が滅入っているのだろう。 相も変わらぬ、稚拙な散文詩。 だけど、俺が何とか盛り上げようとすると、本当にたまにだが、笑ってくれた。 そういう時の優子は、とても可愛いのに。 鈴木の事も気になっていた。 今だ目覚めない。 優子を前にしていると、それが時々心に引っかかった。 いっそどっちかに転んでくれれば、決心もつくのに。 そこで、いや、駄目だ、と思う。 そんな事を思ってはいけない。 状況が好転しなくとも、悪化よりはマシなのだから。 とりあえず、俺は度々優子の家にお邪魔するようになった。 そして、その度に彼女を宥める。 恋愛とはやはりどこか違う、『お友達』な関係。 時たま、そんな自分が激しく滑稽なものに思えたが、これでいいんだ、と自分に言い聞かせた。 その日も、優子の家に向かっていた。 今日は彼女は笑うだろうか、それともまた泣いてしまうだろうか。 笑えばそりゃあ嬉しいし、泣かれると正直少し困る。 女の子の友達も居るのだろうが、疑心暗鬼に駆られている彼女にとっては心許ないのだろう。 だとすると、俺を信じてくれているのは、只、最初の方から話を聞いてくれていたから、ということになるのだろう。 ある意味ラッキーかも知れない。 いや、ラッキーでもないのか。どっちだろう。 夜道を歩いていると、安っぽいホラー映画が思い浮かぶ。 後は、好きな女を殺しちゃう奴とか。 馬鹿だよなぁ。 殺したら、もう、何をする所も見れなくなってしまうじゃないか。 哀しむところ、喜ぶところ、泣くところ、笑うところ。 全く、何を考えているんだか。 首を振った。理解しがたい。 好きだったら、普通、笑うところを見たいもんじゃないか? 個人の趣味といってしまえばそれまでだが。 いや、それじゃあ身も蓋も無いか。 優子のマンションの前まで来て、ふと、顔を上げる。 電柱の影に、人影。 俺は眉をひそめた。 何をやっているんだ? あんな所で。 向こうもこっちに気付いたらしい。 口に咥えた煙草に火をつけようとした所で、止まる。 男の目が、一瞬大きく見開かれた。 血走った目が、俺を捕らえる。 ヤバイ。 本能的に、そう感じた。 そいつは俺の方へと走ってきた。 後ろで、警官らしき人間が叫んだのが聞こえた。 『そいつを捕まえてくれ!』 俺は、酷く静かな気持ちでその男を見つめた。 逃げなかった。 「よし、抵抗するんじゃないぞ」 警官が告げた。 男が警官と顔を見合わせて、頷く。 俺は、半ば冗談の様な気持ちでそれを見つめていた。 こんなにあっさり捕まるものなんだ。 正直、そう思った。 いや、それはいささか問題があったかも知れないが。 警官が携帯で連絡を取っている。 身柄の引渡しってやつかな? 生憎、司法やらなんやらには明るくないので、はっきりとは判らない。 とりあえず、この後取調べとかになるんだろう。 その時。 「あの……どうか、したんですか?」 聞きなれた声。 優子だ。 俺と、二人の見知らぬ顔とを交互に見比べている。 状況が掴めていないのだろう。 「ああ、すいませんが今はちょっと……あ、もしかして、隈井さんですか?」 「え? あ、はい、そうですけど……」 「そうですか、丁度良かった。鈴木さんが、目を覚まされましたよ」 「……! 本当ですか!」 優子の顔が、一瞬だけ輝く。一瞬だけ。 それから、ふと不安そうに男と俺とを見る。 どういう事か、何となく判ったのかも知れない。 「鈴木さんは先程目を覚まされましてね、自分を殴った犯人のを教えてくれたんです」 「それって……」 「ええ、こいつですよ」 『男』が言った。 胸元から警察手帳を取り出す。 あ、本物見るの初めてじゃないかな? と、いうことはこの男は私服警官という訳か。 優子が目を見開く。 「嘘……」 それから言葉が続かない。 男は続けた。 「鈴木さんがね、はっきりと証言してくれたんですよ、彼の名前を」 「嘘…、嘘でしょ、修輔くん」 俺は答えなかった。 代わりに、笑顔で返す。 男と警官、二人に腕を捕まえられたままで。 最後の優子の顔が、記憶に残っている。 ****************** 「それで、何でこんな事をした?」 尋ねられて、俺は少し困る。 答えても、本気だと思ってくれるだろうか。 「え、どうなんだ?」 急かすような刑事の言葉に、俺は口を開いた。 「いや、その……まあ、彼女の事が好きだったものですから」 「……それで?」 彼は多少眉をしかめた。 出来るなら本人に言いたかったんだけどな。 今となっては叶わない。 黙っていると、再び彼が言った。 「好きだった、って言うんだったら、普通は喜ばせるもんじゃないのか? 何で、わざわざ困らすような真似をする」 あ、この人俺と考え方似てるかもな。 あの日、夜道で考えていたことと似たような事を言われてそう思う。 もっとも、彼は俺がそう言ったところで喜ばないだろうが。 いや、むしろ嫌悪するだろうか? そんな思考とは裏腹に、俺の口は動く。 「……好きだったら、笑わせたいと思うじゃないですか?」 「ああ、そうだろうな、だが──」 「俺は、笑って欲しかったんだ」 彼は、今度は隠そうともせずに顔をゆがめた。 口調が荒くなる。 「だったら、何であんな事をしたのかと聞いてるんだ!」 「好きな人には、笑顔で居て欲しいと思うでしょう?」 俺は口調を変えない。 怒鳴ったって、内容が変わるわけでもなし。 とりあえず黙り込んだ彼に向かって、続ける。 「今は偽物ばかりだ。笑顔も同じ。心にも無い笑顔を見せる。それは嫌だ。せめて、好きな人には、本当の笑顔を浮かべて欲しかった」 聞いているのかいないのかなんて関係なく、俺は話す。 自分へも言い聞かせるため。 そう、俺は正しいのだろう。 「でも、普段の生活の中じゃあそれは出来ない。皆と同じような下らない笑顔ばかり。だから、俺は考えた。切羽詰まっている時、危険が迫っている時に、ほんのちょっとした事で見せてくれる笑顔。それが、本当の笑顔なんだと」 座っている刑事の横、もう一人が頭の横でくるくると指を回した。 イカレてる、という意味なのだろうか。 「だから、自分で追い詰めたと、そう言いたいわけか?」 「その通りです」 「……鈴木俊春を襲ったのは、何故だ?」 「彼女が彼に頼ったら、俺は彼女の笑顔を見る機会が少なくなるでしょう?」 当然のことを告げた俺に、彼はため息をつく。 又何か言ったようだが、もう俺には聞こえなかった。 ただ、自分の中の声に体を委ねる。 ねえ、優子、俺は、君に沢山ヒントをあげていたんだよ? 最初から、見せてあげていたのに。 何で、俺が反対方向の定期を持っていたと思う? 何で、俺がすぐに、手紙は風で入り込んだと言えたと思う? だけど君は気付かなかった。 あんなに、『きづいてください』と言っていたのに。 いや、それにしてもあの出来は悪かっただろう。 いざ伝えるとなると、からきし駄目だ。 だから肝心な所でミスするんだ。 ああ、そういえば服も見つかっちゃったみたいだな。 鈴木の返り血がついた服。 優子から携帯で呼ばれたとき、クローゼットに押し込んだままだった。 洗濯くらいしとくべきだったな。 今更遅いけど。 しかし、鈴木にトドメを刺せて無かったのが予定外だった。 俺が気になるのは最後の優子の顔。 俺の予定では、これ以上無いくらいの安堵を伴った笑顔となるはずだったのに。 でも、最後に見た彼女の顔は、泣きそうなくらいに吃驚した顔。 俺の笑顔にも、応えてくれなかった。 だけど、それだけ驚いてくれたってことは。 俺は、少しばかり自惚れてもいいのかな? 俺は、刑事の怒鳴り声を聞き流しながら、くすりと笑った。 愛しい彼女が、何時までも本当の笑顔を見せてくれますように。 |