退廃サイコの三ヶ月
[錯綜する二ヶ月目]





その日、俺はちょっとした用事を片付けていたため、帰りが少し遅くなっていた。
寒いな、とか思いながら部屋の電気をつける。
早く暖房を入れよう、と考えながらコートを脱いだ時、携帯の着信音が聞こえた。
誰だろう。

『隈井 優子』

ディスプレイの表示に俺はちょっと驚いて、それからすぐに通話ボタンを押す。
すぐに、優子の声が聞こえてきた。

『修輔くん?』
「ああ、そうだけど……どうしたの?」
『お願い、すぐに来てくれない?』
「え? いきなり何?」
『ねぇ、お願い!』

一瞬俺は眉根を寄せたが、優子の声が切羽詰った物であることに気付く。
おかしい。何でだろう。
ついでにいうなら、多少混乱しているようだ。

「優子、落ち着け、どうしたんだ?」
『俊春が、俊春が……』
「鈴木が?」
『今、病院で、それで、帰ってきたら変な紙があって……お願い、来て!』

駄目だ。
今は詳しい話を聞くのは無理だろう。
そう判断して、俺はなるべく優しい口調で言い聞かせた。

「判った、今すぐに行くから、大人しくしてて」
『でも……』
「俺が行くまで、家に居るんだよ、いいかい?」
『……うん』
「それじゃあ、待ってて」

ぷつっ

電話を切って、コートを羽織りかけて俺は気付く。

おいおい、これじゃあ優子の前になんか出れないって。

急いで着ていたセーターとズボンを脱ぎ、新しいのに履き替える。
とりあえず、脱いだ物はクローゼットに押し込んでおいた。
他の物が汚れるかも知れないが、今はそんな事に構ってられない。
とにかく、一刻も早く優子の所へ行かなくては。



ピンポーン

ドアのチャイムを鳴らす。
返事は無い。もう一度。物音はしない。
出かけたのか? と思ったが、あの様子ではそれもなさそうだ。
ふと思いつき、声をかける。

「優子? 居るかい? 俺だ、修輔だよ」

数秒して、中からがたがたと音が聞こえた。
次の瞬間、勢い良くドアが開けられた。
優子が泣きそうな顔でこちらを見上げている。
俺を見て、彼女はほっとしたような表情になった。

「良かった、一人じゃ怖くて、外にも出られなかったの」
「ああ、もう大丈夫だから、それで、一体どうしたんだ?」
「とにかく、中に」

言って優子は俺を部屋の中に招き入れた。
そんなに簡単に男を入れていいのか?
しかし、優子はそんな判断すらもまともに出来ないようだった。
入らない俺を見て、不安そうな顔になる。

「どうしたの? 入って?」
「え、ああ……」

お邪魔します、と心の中で言いながら中へ入った。
彼女の部屋に入るのは、初めてだ。
俺が上がると、優子は鍵を閉めて、厳重にチェーンまで掛けた。
その上、開かないかどうか何回も試している。
そろそろ、俺も不安になって来た。

「なぁ、優子、本当にどうしたんだ? ちゃんと話してくれよ」
「うん……あのね、あの……」

説明しかけて、優子は言葉に詰まった。
必死で言葉を探す様に、口を何度か動かす。
やがて、一筋涙が頬を伝った。

「ごめ……どこから話せばいいのか、良く判らない……」

そのまま泣き出してしまう。
俺は多少困惑しながらも、彼女の肩に手を乗せた。

「大丈夫、ちゃんと聞くから、落ち着いて全部話してくれ、な?」
「修輔くん……」

優子は、顔を覆って俺の方に寄りかかってきた。
ちょっと迷ったが、手を背中に回して、ぽんぽんと叩いてやる。
すぐ近くに優子の顔があって嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになった。
いけない、今はそんな事考えてる場合じゃないっての。
もうちょっとこのままでもいいかな、と思う心を跳ね除けて、ゆっくりと優子を引き離した。
一つ一つ、噛み締めるように言い聞かせる。

「もう、大丈夫だな? ちゃんと、話してくれるかい?」
「うん……有難う」

優子は涙を拭った。
俺は彼女に問い掛ける。

「まず、鈴木がどうとか言ってたけれど、あいつがどうかしたのか?」

普通なら、何かあった場合は彼氏を呼ぶだろう。
俺を呼んだのは、普通ではない何かがあったから。
それは判っていた。

「俊春は、今病院に居るの」
「病院?」
「そう、今日、うちに来るはずだったんだけど、時間過ぎても来なかったから、どうしたのかと思って近くを探しに行ったら」

そこで優子は身を震わせた。
顔を歪める。

「俊春が、頭から血を流して倒れてた。急いで救急車を呼んだんだけど──」
「……容態は?」

嫌な予感がした。
背中を、悪寒とは違う、しかしよく似た何かが走る。

「意識不明の、昏睡状態だって」
「それで、目覚める確率は?」
「今のところ、五分五分みたい……」

意識不明で、五分五分だって?
何てこった。
嫌な予感、大的中。大当たりだ。
優子はまた泣きそうな顔をした。

「それでね、それで、今日はもう変わり無いでしょう、って言われたから、一旦帰ってきたの、そしたら」

そこで彼女はリビングのテーブルの上を見る。
恐ろしい物でも見るかの様に。
俺は、そのテーブルの上に乗っている紙を持ち上げた。
いや、紙じゃない。手紙だ。
新聞紙と雑誌から切り抜いた文字で、こう綴ってある。


『おれにきづいてください
 おれをみてください
 ずっときみを見ています
 君もおれをみて下さい
 ほかの人なんかみないでください
 ずっとずっとみています
 どうか俺にきづいてください』


俺は頭を抱えた。
こんな稚拙な散文詩を送りつけるなんて、『俺』は正気の沙汰か?
いや、正気だったら、元からこんなものを送りつけたりはしないか。
俺は優子に尋ねる。

「これは、何処に?」
「玄関を、入ってすぐ。だから、誰か入ったんじゃないかって思って、すごく怖くなって」

頭を抱えそうな優子から、俺は玄関に視線を移した。
可愛い雑貨が並べてある靴箱。
綺麗に並べられたパンプスの類。
俺の靴は今さっき入って来るとき揃えるのを忘れたので、それだけ乱雑に転がっている。
俺はさっき言ったとおり初めて見たのだが、どこにも異常は見られない。

「……入ってはいないんじゃないかな」
「え?」

不思議そうな優子に俺は玄関を指した。

「ほら、あそこの郵便受けに入れて、それが風か何かの弾みで中に入っちゃっただけだと思うよ」

落ち着かせるために言った言葉ではなく、実際そうなのだろうと思った。
中に入れるのなら、こんな回りくどい事はしない。
風じゃなくとも、優子自身が扉を開けた時に郵便受けから落ちたのかも知れない。

「そう……かな?」
「多分ね。それより、これ、どうするの?」
「え、あ、一応、警察に持っていこうかと思って」
「あ、マジで?」

ヤバイ、俺、べたべた触っちゃったよ。
そう言うと、優子は首を振った。

「ううん、幾ら何でも、送ってきた人は指紋とか付けないようにしたと思うから、あんまり意味ないよ」
「あ、成る程」

そうか、全然考え付かなかった。

何でだろうなぁ、こういう性格だから肝心な所でミスるんだよな、いつもさ。

つらつらと、そんな事を考えていると、優子が真剣な目で俺を見つめてきた。
ちょっとばかり、どきっとする。
鈴木の事もあったけど、まあ、どうしようも無いだろ?
精々俺には祈るか、優子の手助けをする位しか出来ないし。
とりあえず、病院の鈴木にそう言い訳しておいた。

「ねえ、それ、俊春を襲った人と同じだと思う?」
「警察は、何て?」
「多分、通り魔だろうって」
「優子はどう思う?」
「よく判らないけど……きっと、その人よ。『他の人なんか見ないで下さい』って……それで、俊春は」

そこで優子は声を詰まらす。
絞り出すような声で、呻いた。

「何でよ……一体誰なのよ……」

どうするべきかしばらく迷って、今度は何もせずに言った。

「大丈夫、俺が近くに居るから」
「……有難う」

優子は笑った。
多少、引きつってはいたが。
とりあえず、笑顔を浮かべてくれた。
こんな状況だが、それでもちょっとだけ嬉しく思っている自分がいた。



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