退廃サイコの三ヶ月 [序章である一ヶ月目] 朝の教室で、俺は閉じかかる目蓋を擦っていた。 昨日遅くまで起きていた所為で、激しく眠い。 気を抜くとこぼれそうになるあくびをかみ殺しながら、俺は席についた。 ふと、教室の扉を開けて入ってくる人影を目にとめる。 眠気は一気に吹き飛んだ。 「やあ、優子、おはよう」 何気無い風を装って声を掛ける。 相手はぴくっと反応して、今こちらに気付いたように目を開く。 そして、笑顔で答えた。 「あ、ごめんね修輔くん、おはよう」 「……優子、どうかしたの?」 俺は、彼女──優子の笑顔が、どこか無理したものであるような気がして、そう尋ねた。 よく見れば、目の下にくまが出来ている。 俺の言葉に、優子は眉根を寄せた。 そして、わずかに声のトーンを落とす。 「やっぱり……判る?」 「うん、昨日夜更かしでもしたのか?」 そう言ってから、男じゃないだろうな、とか思った。 いや、まあ、なんというか。 その、俺は優子──フルネームだと、隈井 優子が、好きなのだ。 男だなんて言われたら、はっきり言ってヘコむ。 しかし、彼女は首を振った。 「ううん、夜更かしって言えば夜更かしだけど……」 そこで、優子は俺を見つめる。 思わずどきっとしたが、動揺はとりあえず出さないで済んだようだ。 「ねぇ、ちょっと話聞いてくれる?」 「え? あ、ああ、勿論」 優子の真剣な表情に、反射的に頷く。 彼女はほっとしたように息を吐いた。 「良かったー、ほんと、どうしようかと思ってたのよ」 「んで、何だい? 寝不足なのも、それが原因?」 「そうなの、ちょっと最近、変な人が居て……」 呟く優子からは困っている様子がひしひしと伝わってきて、俺はさっき男じゃないかなんて下世話な事を考えたのを少しばかり恥じた。 優子にそんな思いが通じるわけもなく、彼女は話し続ける。 「顔は判らないんだけど、帰る時とかつけられてるみたいで、昨日なんか──」 考えすぎじゃないか、という前に、彼女は言葉を切る。 そこで優子は深いため息をついた。 「マンションの外に、ずっと立ってる人がいたのよ。ストーカーじゃないか、とか思っちゃって……」 「ストーカーだって?」 それは酷い。 俺は優子に尋ねた。 「それで、気になって眠れなかったってことか?」 「まぁ、そう云う事。目を合わせるのが怖くて、どんな人か全然見なかったんだけど」 「それは何時から?」 「うーん……一週間くらい前かな? 今月の初めくらい」 「そうか…………」 俺は腕を組む。 気のせいだ、と言うのは簡単だが、それで彼女を安心させられるか? いや、答えはノー。 安全圏に居る人間に、『大丈夫だ』なんて無責任な励ましをされても、不安は消えない。 優子に安心感を与えるにはどうすればいいのか? 俺の回答としては『自分もそこに飛び込んでやること』だと思う。 ともかく、俺は優子に向かって微笑んだ。 「それじゃあさ、今日、送って行こうか?」 「え? でも……」 駄目か? いや、別に下心があるわけじゃないぞ、って誰に弁解してるんだ俺は。 優子が言った。 「修輔くんの家って、うちのマンションと反対方向じゃなかった?」 ああ。 何だ、そんなことだったのか。 俺は苦笑して見せた。 「何言ってるんだ。一人じゃ不安なんだろ? まあ、大して頼りにならないけど、大声出すくらいは出来るよ」 きっぱり言い切ると、優子はぷっと吹き出した。 口元に手を当てて、笑う。 「ちょっと、情けない事云わないでよね。嘘でも『俺が守るよ』位言ってくれない?」 「出来ないことは言わない主義だ」 「もー、本当に大丈夫?」 「大丈夫大丈夫」 俺も笑顔で、優子と顔を見合わせた。 やっぱり、彼女は笑顔の方が似合う。 大学の近くの駅で、俺と優子は定期を見せて構内に入った。 がたん、がたんと揺れた電車は、次第に規則的な音を刻み始める。 変な奴など何処にも居ない。 「ねぇ……誰も居ないよね?」 電車から降りるなり、優子がそう囁いた。 普段は、電車を降りてすぐに視線を感じるらしい。 それは神経過敏だ、と思ったが、言わないでおいた。 俺は優子の気分を少しでもほぐそうと、明るい話題を選んで話し掛けた。 もっとも、彼女は曖昧に頷くだけだったが。 時たま、後ろを振り返る。 勿論、誰も居ない。 それどころか、猫一匹通りやしない。 別の意味で怖い通りだ。 突然、優子が呟いた。 「……嘘だと、思ってる?」 「え?」 きょとんとして、俺が聞き返すと、彼女は顔を伏せた。 「だって……あれだけ騒いだのに、何も無いんだもの」 「…………ああ」 俺は首を振った。 街灯の光が届かなくなり、彼女の顔が良く見えなくなった。 しかし、続ける。 「そんな事ないさ、出来れば何も無い方がいいんだしさ」 そう、否定するわけにはいかない。 優子は俺を頼ってくれなくなる。 自分勝手な理屈だが、恋してる故と許して欲しい。 彼女は顔を上げた。 街灯が、優子の顔を照らす。 「ありがと、信じてくれて」 「…………いや」 意識してやった訳ではないのだが、優子から顔を逸らした。 柄にも無く照れてしまったらしい。 それを隠すために、ややぶっきらぼうに告げた。 「まぁ、悪い方に考えない方がいいけど、危ない時は遠慮しないで言えよ」 「うん、ありがとうね、修輔くん」 「叫んだら正義のヒーローが登場してくれるかも知れないし」 「それは無いでしょ」 優子が笑い出す。 段々いつものペースに戻ってきた。 俺はその後、優子を部屋まで送ってから帰路についた。 勿論、不審な人影なんて、どこにも居なかった。 それから更に一週間後── 俺は、優子の顔がやけに明るいのが気になった。 講義が終わった後、優子に尋ねる。 「優子、何か明るいね。どうした?」 「あ、修輔くん……やっぱ、わかっちゃう?」 「うん、楽しそう。良い事あった?」 「そう、あのね…………」 言いかけて、恥ずかしそうに笑う。 その様子は楽しげだったが、俺は少し嫌な予感がした。 問い返すよりも早く。 「おい、優子、行こう」 「あ、俊春、判った、ちょっと待って」 ……何? 振り向くと、鈴木──鈴木俊春が、にっと笑顔を見せた。 何となく、理解して、優子を見る。 「……えっと……彼氏? になったの?」 「うん、そう」 あっさりと告げられた言葉に、一瞬痛い衝撃が来る。 そんな俺の様子を特に気にもせずに、優子は続けた。 「まだ誰にも言ってないけど、修輔くんは友達だもんね」 「……ああ、そうか。良かった、ね」 「うん! ありがとう。それじゃあ、またね!」 手を振って、鈴木の所に走る優子の背を見ていたら、鈴木がにかっと笑って、レポート用紙を上げた。 畜生、お前も狙ってたのかよ。 友達、ね……所詮はその程度だったのか、俺は。 少し脱力して、椅子に座り込んだ。 叫びたかったが、それは止めた。 まぁ、とにかく、優子は幸せそうだった。 一週間後、切羽詰った声で俺に電話をかけて来るまでは。 |