『君は誰』




置いたカップからはコーヒーの香り。
インスタント。

「愛しているよ」

告げた言葉は何度目だろう。
笑顔を浮かべて心の底から発する言葉。インスタントじゃない出来合いじゃない。

「はいはい」

そっけ無い言葉の君。
君は誰だ。

「本当だってば」

確かに本当なのに目の前の君は誰だ。
理解出来ないのに確かに愛していると言える矛盾。
目の前の君が分からないけれど俺と言うのは君という存在とシノニム。
少なくともアントニムにはなれない。僕も君も生きている。生きている定義がなんだろうが俺と君は生きている。
プシュケでは無いのは分かるのだけれど君は誰。

循環的な世界に僕は俺は眩暈を起こしそうで。

例えばたかが十秒で出来ることの話をしてみようか。そう俺は君の髪を撫ぜることが出来るし口付けを落すことも出来るし背後から抱き締めることだって出来るし首筋を噛むことも腕に爪を立てることも出来る。

ほんの刹那でありながら刹那の繰り返しで時は瞬きすぎて行くと言う事実にまたもや混乱。刹那は瞬きでありながらどうして人生と成り得るのか。塵も積もれば山となるという何に関しても聞き飽きた言葉は慣用句であるから仕方の無いことでそれでも俺は納得できず。
刹那は刹那として存在してもそれが連続した場合は刹那でなくなるのだろうか。そうすると死ぬまで連続している僕らの時間に刹那は存在しなくて瞬間の積み重ねは有り得なくなってそれ自体あやふや。

君という存在が分からないからと言って愛していると言うことに変わりは出てくるのだろうか。
君自身を知って君を知って僕は俺自身を知らずに君を知らず。

返事が無いのを訝しんでみるけれど君はもう興味無さそうにテレビに見入っている。その中に君を魅入らせるものは無いのに。
それとも君自身が何処かに居るのかい。
多少なりとも虚偽で彩られた素敵な世界。ああそれは勿論日常でも何ら変わりない訳だからテレビは日常になるのだろう。
君の名を読んで君の名を呼んででも君はネームレス。

「愛してるって」
「それはどうも」

テーブルに頬杖を付いて呟けばやっつけ仕事なお言葉を拝聴。
君は君なのに。どうして更に曖昧にするの。どうして雨の中一人だけ血塗れているような顔をしているの。
作り笑いだ何て言わないから君は本当に笑っているんだろうから。

でも君の顔が見えない。

何故だか分からないけれど顔が見えない名前を呼んでいるのに認識できない君は誰。
窓から外を眺めれば電線が。烏が鳴き雀が止まり鳩が休むその場所で俺は全てを見られるのか。
こんなことを考えていると知ったら君は時間の無駄だと笑うのだろうかテレビを見ているその姿で。

「……何泣いてるの?」

声に顔を上げると君がいつのまにかマグカップをもって其処にいてそれが前俺があげた奴だとかそういうのが嬉しくて笑うと君は更に不思議そうな顔をする。纏う香りは紅茶のようで僅かだけ僅かだけ部屋の空気に彩りを。

「愛してるから」
「意味が分からないけど」

しってるしってるわかってる。
でも君にだって意味が分からないことは沢山有るんだよまるで逆光みたいに君が見えない。
そのカップに入った紅茶が全部乾いて中身がなくなるまで君の体に本当に穴があくまで見つめていても君の事はもしかしたら見えないのかもしれない。

「愛してる」
「……早く帰って寝た方がいいよ」
「眠くない」
「じゃ休みな」

実際僕は疲れているのかも知れなくておかしいのはきっと俺の方で。明日になればまた何も変わらないのだと思うと酷く退屈であるような安堵感。それでも昨日と同じ明日は有り得ないのだと自分を慰めて僕は目を閉じる。


テーブルの冷たい感触だけが救い。





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