死泣女(バンシー)の森



死泣女(バンシー)が泣いている。


あ あああ ぁあ あ

朦朧とした頭で僕はそれを聞く。
死人が出ると泣くという、女の妖精の声を。
心の底から絞り出される悲哀に充ち満ちた声を。
心を抉る様な、痛切な悲鳴を。


あぁあ あぁ あああ ぁ あ


その涙は誰の為。
あちこちで死んでいる、兵士の為か。
寒空の下、失われようとしている幼い命か。

──それとも僕?

腹の傷を押さえながら、面白くない想像をしてみる。
槍によって薙がれた傷からは、止まらずに血が流れていた。
傷薬は尽きている。
剣は何処かに落としてきた。
盾なんか、最初の敵の一撃で壊れてしまった。

鍛冶屋を怨む気は無いが、もっと丈夫に作れなかったものか。
それとも攻撃を一度だとしても受け止められたのが奇跡だったのだろうか。

ともかく、体一つ、持ち出すのが精一杯だった。
しかも、それも完全では無く、痛みを伴って。

それでもまだいいのかもしれない。
自分の腹を薙いだ槍兵は、次の瞬間横から頭を貫かれた。
それが戦場だと頭で理解していても、初出陣の身には少々辛すぎた。
しかも初陣が大敗。
生きているだけでも奇跡なのだろう。

その奇跡が今、朽ちようとしているところだとしても。

随分と歩いたはずなのに、未だに森から出る事が出来ない。
霞み行く景色に、近くの樹に手を付いた。
苔の湿った感触が掌から伝わってくる。

駄目だ。
助けが来るまで、倒れては──。

そう考えた後、自嘲の笑みが浮かぶ。

助け?
一体誰が助けに来ると言うのだ?
捨て駒同然で、敵陣に突っ込まされた小隊の兵士を?

仕方ないのかも知れない。
徴兵で集められただけの、ロクな訓練も受けていない農民では。
失ったところで大して痛くなどない。

くつくつ、と笑い声が漏れた。
馬鹿馬鹿しい。
本当に、馬鹿馬鹿しい。

それでなくとも、此処は魔性の森。
好きこのんで入る者など滅多にいない。
高位の精霊使いか魔術師なら、有り得るかも知れないが。
もっとも、そんな優秀な術師は、とっくに此の地から出ただろう。

と、なると、彷徨っているのは、自分の様な下級兵士。
魔術も知らず、人為らぬものと交信する術も持たない人間。
いなくなったとしても、痛手とも思われない人間。
それも死に掛け。
ああ、何て馬鹿馬鹿しいのだろう。

余りに馬鹿馬鹿しくて、嘔吐しそうだった。
今吐くとしたら、反吐は恐らく、血反吐だろうけれど。


ああぁあ あぁぁ  ぁあ ああ


耳朶を打つ泣き声が、すぐ傍で聞こえた。
ゆっくりと前を見ると、小さな河の向こう岸に女の影。
長い髪を振り乱しながら、大声で泣いている。
顔は良く判らないが、前髪の間から目だけが見えた。
常に泣いているからか、それは充血して真っ赤だった。

零れ出す雫が、朱に染まっていないのが不思議な程に。


あぁあ あ あ ぁあぁ


泣き叫ぶ度に、灰色のマントが揺れる。
赤い瞳から、ぼろぼろぼろぼろと涙を零して泣いている。

何故、泣くのだろう。
そんなにも、悲痛な声を上げて。

自分には判らないし、判りたいとも思わないが。
──判ってしまったら、自分も泣き叫ぶのだろうか。

最後に泣いたのは、一体いつの事だっただろう。
あんなにも大きな声で、自分を叫んだのはいつ?

命を失う危険性が高いと分かっていても、出るしかないと兵士になった自分は?
怖くても泣き叫べなかった自分は?
一体、いつ、泣いて、存在を叫んだのだろうか。

気が付いたら、既に地面に倒れていた。

下草の香りが僅かに鼻孔を突く。
ああ、ここで終わるのか、と曖昧な意識の中、感じた。

何の為、自分はここまで生きてきたのだろう。
少なくとも、戦で死ぬ為では無かった、と思いたいが。
しかし、だとすると、ここで倒れている自分は。


何の為に、生きて、生きて、生きて生きて生きて──。


疑問は湧けども、答えは出ず。
また、答えてくれる相手も居ない。


ぁ ぁ あ あぁあ あぁぁぁあ


聞いているのは、ただ、向こう岸の死泣女(バンシー)だけ。
それも、答えてはくれそうに無いが。

見上げた梢の間から、切れ切れの夜空が見えた。
黒の空に飛ぶ、妖精。
幻想的。
現実を見失わせ、死の国へと誘うかの様に舞う。

月の中に影浮かび、光の中に飛び回り──。

ぽたり、ぽたりと言う音に、僕は現実へ帰った。

いつの間にか、死泣女(バンシー)が近くにいる。
止め処なく流れる雫。
喉の奥から漏れる大きな泣き声。


あぁあ あぁあああ あ


僕の事など見えていないかの様に、大きな声で、泣く。
その悲痛な声さえも、最早子守唄の如く聞こえる。


「……っ」


最期に、僕は何を呟こうとしたのだろうか。
自分でも判らなかった。
怨嗟の言葉か、救済を求める言葉か、来世の幸福を祈る言葉か。

ただ。

甲高い笑い声が耳につく。
月光の下、欠け逝く僕の姿を、妖精達が嘲笑っていた。








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