『ねぇ、私が死んじゃったら、泣く?』 『泣かないけど、多分寂しくて死ぬよ』 『何それ』 『いや、ほんと。七生がいなかったら、僕は死ぬよ』 『ほんと?』 『もちろん』 僕は走っていた。 夕暮れ時、夜が空を侵食していく時間を疾走していた。 それは格好良い理由なんかじゃなくて、ただ怖くて逃げていただけだった。 自分の息遣いが何よりも現実を知らせてきて、どんな怪物よりも恐ろしかった。 僕の彼女は、 『七月七日に生まれたから、七生なんだよ』 と彼女は名前の由来を嬉しそうに笑っていた。 しかし次の瞬間には頬を膨らませて、 『でもどうせだったら、ななお、じゃなくて、ななみ、の読み方が可愛かったのに』 僅かな文句を漏らすのが常だった。 僕が、ななおでもななみでも七生は可愛いよ、というと、それはどうも、と言って少しおどけた調子で笑った。 七月七日に生まれた彼女は、嬉しくも無い偶然で、同じ日に命を落とした。 黄色になった信号を無理に突っ切って右折してきた車に撥ねられた。 七生は世界にたった一人しかいなくとも、そんな交通事故は世間では良くある事故でしかなかった。 僕は涙も出なかった。 誕生祝いに渡すはずだった花は、彼女と一緒に棺桶に入れられた。 僕との待ち合わせの場所に向かう途中で事故に遭ったなら、まだ自責の念も沸いてきたかも知れない。 しかし彼女は、バイトが終わって家に帰る途中で撥ねられた。 日常の、何でも無い一コマで彼女の時間は終わった。 それから早一年が過ぎたが、まだ僕は生きていた。 だから七生が怒ったのだ。 七生の生まれて死んだ日に、僕が何もしていないから。 死ぬといったのに僕が死んでいないから。 息切れを起こしながら、数時間前までは下校途中の小学生で溢れていた通学路を一人走る。 最近、変質者が出たらしく、歩いている人影は誰も居ない。 カーブミラーの下に、誰かがいる。 七生だ。 真っ白い顔をした七生が、無表情でこっちを見ている。 既に周囲は薄闇に沈んでいるというのに、彼女だけは白く風景から切り離されていた。 ストレートの黒髪ですら、白い光をまとって浮き上がっていた。 僕は悲鳴を上げた。 横道に入り込んで、必死で七生の視線から逃げる。 絡むように視線は、七生は、追いかけてくる。僕には分かる。 アスファルトを蹴って走るスニーカーにまとわりつくような感覚が消えない。 その内足を掴まれるに決まっている。 早く、早く逃げないと。 行き止まりのフェンスに行き着いた僕は、振り返ってまた悲鳴を上げそうになる。 七生が静かに近付いて来ていた。戻れない。 火事場の馬鹿力というものを発揮して、僕はフェンスをよじ登った。 フェンスの先には小さなビルがあった。 一体なんのビルなのか、使われているのかいないのか、昼間に見れば分かるのだろうが、夜が全てを覆っていく今の状態では黒い塊にしか見えなかった。 それの非常階段を、僕は駆け上がる。 登ってしまえば、逃げ場は更に無くなることに気付いたのは半ばまで登ってからだった。 振り向けば、途中で薄れたり消えたりしながらも、七生がゆっくりと後をついてきているのが見えた。 僕はそれが何よりも恐ろしくて足を止められなかった。 鍵の掛かっていた鉄柵を乗り越えて、僕は屋上に転がり込む。 夜気を孕んだ風が、僕の頬を撫ぜて行った。 緑色のよくあるフェンスで遮られた向こうに、灯り始めた家の明かりが見えた。 玄関先の明かりに照らされた笹が見える。 ああ、今日は七月七日だ、七生の誕生日で命日で、そして七夕だ。 その明かりが、今は酷く遠い。 振り返ると、そこに七生はいた。 真っ白い顔で、無表情で、僕の方に近寄ってくる。 逃げ場をなくした僕は、フェンスに背をぴったりとつけて、ずるずると座り込む。 「な、なお」 零れた声は、自分でも情けなくなるくらいに掠れていた。 七生は何も言わなかった。 段々と近づいてくる。 「なな、七生、七生、ごめん、ごめん、僕」 繰り返す謝罪の言葉にも七生は耳を貸さない様子だった。 恐怖の為か滲んできた視界の先に、白い塊が見える。 「七生、七生、ごめん、僕、ああ、死ぬから、許して──」 背中のフェンスに手を伸ばしてそれを掴む。 細い針金が掌に食い込んでくる、七生が近づいてくる。 白い、白い、真っ白な両手を伸ばした、七生は、 僕を抱きしめた。 感触は、感じなかった。 何かひやりとしたものが通り過ぎたような気配だけを感じた。 僕が二回、瞬いた後に、彼女は姿を消していた。 その白い姿は、屋上のどこにも見えなかった。 声だけが耳に届いた。 『しなないで』 次の瞬間には、風が声を掻っ攫って行った。 頬に熱いものが伝って、視界が少しの間だけ鮮明になる。 しかし、今度は恐怖でない別の感情から溢れた涙がすぐにまた視界を水浸しにし始めた。 『ねぇ、私が死んじゃったら、泣く?』 『泣かないけど、多分寂しくて死ぬよ』 『何それ』 『いや、ほんと。七生がいなかったら、僕は死ぬよ』 『ほんと?』 『もちろん』 笑って言った僕に、七生は珍しく困ったような顔を見せた。 感情をはっきりと表すタイプの彼女が滅多に見せない表情だった。 『それは、駄目だよ』 『何で?』 『私は敬くんに、幸せになって欲しいもの』 けいくん、と僕の名前を、七生は宝物の様に大事に言った。 彼女は最初から、僕が死ぬ事なんか望んでいなかった。 追いかけてきたのは、七生じゃなかった。 僕が勝手に定めた約束が、七生の形をとって追いかけてきただけだった。 止めてくれたのはきっと、七生だった。 「なな」 太陽の光が消え失せ、すっかり夜の様相に変わった空に向けて呟く。 曇った空は星を隠し、天の川なんか全く見えなかった。 七月七日に産声を上げ、七月七日に死の顎に飲み込まれた僕の彼女の名前は、七生。 七生は七落、七終。 「七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生七生ななおななおななおななおななおななおななお」 泣き声混じりで必死に名前を呼ぶ僕の耳に、彼女の声はもう聞こえなかった。 |