二択 「ねぇ春恵、ちょっとこれ見て」 机を挟んで差し出された携帯に、春恵は首を伸ばす。 そう言って洋子が見せたそれの画面には、一通のメール内容が表示されていた。 『件名:どっちが好き? 本文: 第一問、犬と猫 』 それだけが書かれた、たった一行のメール。 絵文字はおろか、顔文字すらもないので少々愛想には欠けるが、何の変哲もないメールである。 春恵は小さく首を傾げた。 「ああ、何? 私は犬が好きだけど?」 「えー、猫の方が……じゃなくて、それはどうでもいいの」 言いかけた言葉を途中で止めて、洋子は更に画面を突き出してくる。 差出人は、『ueno sawami』とあった。春恵の知らない名前だ。 小中高、と洋子と学校を共にして来た春恵だが、それでもその名は見慣れないものだった。 「ウエノ……サワミ? 誰これ、部活の?」 「違うよ、上野はいるけど、サワミじゃないもん。奈々だよ」 「ふーん、じゃ、何?」 「知らない」 言って洋子は顔を歪めた。 携帯を持った手を自分の体へと引き戻す。ネズミのキャラクターのついた可愛いストラップが合わせて揺れる。 放課後の教室には夕日が差し込んできていた。 机の上に広げた安いスナック菓子に手を伸ばしながら春恵も眉根を寄せる。 「知らないって何さ」 「だからほんとに知らないんだって。知り合いにこんな名前いないんだって」 「何で知り合いじゃない人がんなメール送ってくんの」 「分かんないから困ってんでしょ」 夕日に照らされた洋子の顔は赤い。彼女の奥の窓から差し込む光が眩しい。 洋子は携帯のボタンをいじって、また春恵の前に差し出した。 『件名:どっちが好き? 本文: 第二問、アスファルト舗装路と砂利道 』 件名は変わらず、微妙に本文だけが変えられた一行メール。 やっぱり愛想は無いその文の差出人はウエノサワミ。 「……また微妙な。二問目からいきなりネタ無くなったんじゃないのこれ」 「それ以前になんでこの二つ?」 素直な感想を述べた春恵に、洋子も理解出来ない様子で首を捻った。 第一問はまだ犬と猫、とポピュラーな質問なのに、二問目でアスファルトと砂利とは。 普通はこの二つのどちらが好きかなんて聞かないだろうし、聞いたところではっきり言って意味は無いだろう。 アスファルト舗装された道が好きだろうが、砂利道が好きだろうが、通る道なら通るのだから好きも嫌いも無い。 道の好みを知ったからといって、相手の何を知ることにも役立たないと思うのだが。 「最初のやつ、返したの?」 「返してないよ、そもそも知らないし」 「その、上野奈々だかのお姉さんとか妹じゃないの」 「何で奈々の家族が私の道の好みを聞いてくんのよ。大体、奈々一人っ子だし」 「じゃあ誰よ」 「私が聞きたいんだって」 会話が頭に戻ってしまい、洋子が溜息を吐いた。 そんな彼女の顔の前で、春恵は軽く左右に手を振る。 「まあまあ、気にしなきゃ止めるんじゃない? 誰にしても」 「うん、他には何も無いから、しばらく無視しとこうかと思って」 「知り合いだったらその内言ってくるだろうしね」 「ま、ちょっと気持ち悪いけど、害は無いしね」 「ウザかったら着信拒否しなよ」 春恵の言葉に洋子はうんうんと頷いた。 ぱちん、と折りたたみ式の携帯電話を閉じてバックに突っ込む。 そしてスナック菓子に手を伸ばしながら、整えられた眉を歪めた。 「そうそう、ウザいって言えば最近さぁ、部活の一年が──」 愚痴り始めた洋子の言葉をまたかと聞き流し始めた春恵にとって、そのメールの話題はそれで終わった。 終わったはずだった。 一週間後の帰り道、春恵と洋子は一緒に歩いていた。何でも無い帰り道だった。 安いファーストフードでもしょっちゅうではお金がかかるという事で、コンビニに寄る途中。 春恵がそれを思い出したのも、ただの偶然だった。 「そういえばさ、洋子、アレどうなったの?」 「アレ?」 「あの犬と猫がどうのとかの変なメール」 言った少し後で、春恵は洋子が足を止めたことに気付く。 数歩後ろに立っている洋子に、ああもう忘れていたのか、と春恵は自分のポケットから携帯を出して振った。 春恵のストラップは金属製のものがついているので、それが触れ合って小さな音を立てる。 洋子は止まったまま、自分のバックに手を入れた。 取り出した携帯を開きもせず、そのまま春恵に差し出す。 「え、何よ」 「見て」 明るい洋子にしては珍しく硬い口調だった。 それを訝しく思うよりも前に、条件反射の様に携帯を開いて画面を動かす。 メールボックスを開き、受信メール一覧を……。 「……何これ」 画面をスクロールさせながら、春恵は思わず声を漏らした。 一番多いのは、『ハル』という差出人。これは春恵の出したものだ。 しかし、その間に繰り返し挟まれているのは、『ウエノ サワミ』から送られてくる、『どっちが好き?』という件名のメール。 春恵は眉根を寄せた。 「ずっと来てんの? 気持ち悪ぃー」 「一番新しい奴の中見てよ」 「ん」 上まで戻り、『どっちが好き?』という件名で一番新しいものを表示させる。 その下は今朝、春恵が洋子に送ったものだ。つまり今日の朝から昼にかけて、ウエノサワミはまた送ってきたのだろう。 『件名:どっちが好き? 本文: 第十二問、腕が千切れるのと足が千切れるの 』 「……どっちも嫌に決まってんじゃん」 「そう。何だかどんどん質問の内容がおかしくなってきてさぁ……怖くない?」 洋子の言葉に、春恵は画面を見つめたままで頷く。一行メールは当然その一行以外には何も表示しない。 送信者の意図は全く読めない。 春恵は画面から視線を引き剥がし、彼女に尋ねる。 「もう受信拒否しなよこれ。気分悪いでしょ」 「──出来ない」 「はぁ?」 この一行メールは春恵が見る限り、ごく普通のEメールで届いている様子だった。電話番号で届くタイプであれば、確か拒否設定出来ない場合もあったはずだが──。 自分よりも携帯を使う頻度の高い洋子が、受信拒否機能を使えない訳が無い。 しかし彼女は、引きつった顔で首を振る。 「出来ないの。何でだか知らないけど、アドレスが表示されないの。それ」 「携帯が壊れてるわけじゃないよね?」 「だって他の人のは普通に出てくるよ」 「……アドレス変えたら?」 「この間変えたでしょ?」 問いの形をとった確認に、春恵は洋子が三日前にアドレスを変更していた事を思い出した。 アドレスを変更したのは三日前。 一番新しいメールが届いたのは今日。 「……アドレス変更知ってる誰かの仕業じゃないの?」 「誰が? だって私、怖かったからメールじゃなくてわざわざ手紙でアドレス渡したんだよ? 春恵も入れてまだ四人にしか教えてないんだよ?」 「私じゃないよ」 「分かってるよ、だから絶対にこういう悪戯しないって分かってる子にだけ渡したんだよ」 声が段々と切羽詰ってくるように聞こえて、春恵はそれ以上の言葉を止めた。 アドレスが表示されない云々の原因は分からないが、少なくともこれ以上洋子に何かを聞いても余計に脅えさせるだけだ。 かといって春恵にはそれを解決するだけの知識は無い。 ──だからせめて、努めて明るい声で笑った。 「ま、何にしても洋子がそんな嫌がってるって分かれば止めるって。じゃなくても、いい加減そろそろ飽きるでしょ」 「飽きてる……かなぁ」 「飽きる飽きる。逆にその中とか、その近くにやってる奴がいるなら怖がってる分だけ損でしょ?」 「……まあ、ねぇ」 肩を竦めて言った言葉に、ややしてからの返事。 洋子もようやくちょっとだけ笑って、春恵が差し出した自分の携帯を取った。 と、その時、携帯が震えた。 バイブと同時に鳴る短いその着信音は、メールの着信を伝えている。 洋子の顔から笑みが消えて、手の中の携帯を見下ろした。何かを言うのは躊躇われたが、それでも春恵は明るく尋ねる。 「誰?」 返事は無い。 洋子は春恵の声も聞こえていないように暫らくの間迷って、それから携帯を開く。 そして無言のままで、彼女は春恵にそれを差し出した。 『件名:どっちが好き? 本文: 終問、今日と明日 』 「……どういう意味かな」 赤い夕日を逆光に、洋子が僅かに震える声で問い掛けてくるが、当然春恵に答えられるはずもない。 ただ、分からない、と首を振ることしか出来なかった。携帯を握る自分の手さえも、汗ばんでいる気がする。 夕暮れの風景の中で、春恵はまた笑みをどうにか浮かべて洋子に携帯を返した。 「でもさ、終わり、ってことでしょ、これ。もう送ってこないんじゃない? ね、だったらいいじゃん?」 洋子は何も言わなかった。ただ無言で携帯を取った。 彼女はそれを鞄の中にまた突っ込む。 そういえば一週間ほど前までは、洋子も春恵と同じようにポケットに携帯を入れていたはずなのだが。 「……今日……いや、今日は……明日……明日、何かあるのかなぁ……」 自問するように呟かれた、根拠など何も無いその一言が、春恵にまで重く圧し掛かってきた。 次の日、洋子は学校に来なかった。 朝に姿を見かけず、不安になって担任に聞いてみたら、気分が悪いから家から出たくないとのこと。ああ、やっぱり気にしているのか、という呆れと、無事だという安堵に春恵は溜息をついた。 大丈夫か、とメールを送ろうかと思ったが、少し考えて止める。 ただでさえメールのせいで神経質になっているのだから、それを送るのは止めた方がいいだろう。今日何も無ければ、あれはただの悪戯メールだと納得してすぐにいつもの調子に戻るに違いない。 明日の朝に、『ほら、何も起きなかったでしょ?』とでもメールを送るなり電話をするなりして笑ってやればいいのだ。 春恵はそう考え、一日を過ごし、一人で帰り道を歩いていた。 と──。 「おかえり、春恵」 地面に目を落としながら歩いていたらかけられた声に、春恵は驚いて顔を上げた。 夕日に照らされた電柱の影で、洋子が笑って手を振っている。 「洋子? あんた、どうしたの。今日休んだのに」 「何か怖くってさあ」 返された言葉には、やっぱりと春恵は思ったものの、笑う洋子は元気そうなので安心する。 すると結構自分も気にしていたのかもしれないな、と心中苦笑を浮かべながら春恵は洋子に近づいた。 昨日よりは明るい調子の洋子は、しかし奇妙な言葉を投げかける。 「本当は家でじっとしてようと思ったんだけどさー、会おうってメールくれたでしょ? ありがとね」 「え?」 「あ、まさか忘れてたとか言わないよね。私結構本気で嬉しかったんだからさ」 「私が?」 「当たり前じゃんか、もー、からかわないでよ」 けらけら笑って自分の携帯を見せる洋子に対し、春恵は眉根を寄せた。 春恵は今日、洋子にメールなど、一通も送っていない。 その事を告げようと手を上げた時、ポケットから携帯電話が転がり落ちた。 喉まで出かけた言葉を飲み込み、急いで拾い上げるが、数日前から取れかけていたストラップの飾りが外れてころころ転がっていく。 側溝に落ちそうになったそれを追いかけて、慌てて走る。 洋子と春恵の距離が、少し開く。 転がる飾りを屈んで手で止めた春恵の目に入ったのは、茂みから飛び出す猫。 飾りを手に握り、立ち上がった春恵の耳に届いたのは、耳障りなブレーキの音。 携帯を握り、驚いて振り返った春恵の目に入ったのは、立ち尽くす友人とトラック。 洋子の悲鳴よりも、何よりも、春恵の耳に届いたのは、柔らかいものが潰れる音。 「あ……ああ……」 春恵はぺたんと地面に座り込んだ。 口から、言葉ともいえない声が漏れている事にも気付かなかった。 ブレーキの音に掻き消されかけていながらも、聞こえてしまったぐちゃ、という音が何度も響く。 電柱とトラックの間から、携帯を握ったままの洋子の手が除いている。 つう、とそこに血が伝う。 力を失った手から、携帯が落ち──いや、違う。 腕が、落ちた。 トラックと電柱に挟まれた腕は、根元を押し潰されて千切れて落ちた。 携帯は数度アスファルトの地面を跳ねて、春恵の傍に転がってくる。 洋子の様に悲鳴を上げる事も出来ず、ただただ春恵は呆然とその光景を見ていた。 電柱とトラックの間から、じわじわと赤いものがにじんでくる。 アスファルトを冒し、浸し、濡らしていく。 猫が、 アスファルトが、 腕が──。 次の瞬間、洋子の携帯が鳴った。 今の状況にはあまりにもそぐわない、軽快なパレードミュージック。 サブディスプレイに、名前が表示される。 『メール受信:ueno sawami』 何も出来ずに、触る事も出来ずに、春恵がそれを見下ろしていると、やがてディスプレイはちかちかと点滅し始めた。 名前が、勝手に、入れ替わっていく。 『ueno sawami』から── 『omaewa sinu』 ちかちかちかちか。 嘲笑うように、背面液晶が鮮やかに光る。 『お前は死ぬ』と。 それを理解した春恵の背に、形容しがたい寒気が走った。 今度は、手に握った春恵の携帯が鳴る。 救急車だかパトカーだかのサイレンが聞こえてきた中で響く、お気に入りのバンドの曲は、その時は酷く嫌悪すべきものに聞こえた。 半ば無意識に、半ば操られるように、手の中の携帯を開いた。 予想通り、それは──。 『件名:あなたは、どっちが好き? 本文: 第一問、犬と猫 』 |