幕間劇-1





起きたらレサが居なかった。

のっそりと起き出したザカリーは首を左右に振る。
いつも起こしに来る相手が来なかったので、寝過ぎてしまった頭を覚ますためだ。
台所の壁に手をついて耳を澄ましても、物音は何も聞こえない。
外で何か仕事をしているのだろうか。
顔を洗ったついでに家の周りを見たが、骨は何処にも居なかった。
さては買い物かと、既に冷めていた朝食を食べて、しばし待つ。
帰ってくる様子は無い。
久々に自分で食器でも洗おうと、水を溜めた小さな桶へとそれを運び──。

「……あ」

がしゃん、と言う音が響き、手から滑って落ちた木皿が割れた。
皿を逃がした自分の手をじっと見詰めても、過ぎた時は帰って来ない。
分かってはいるが、それでもやってしまうのが人でありザカリーだ。
木製の皿は、破片が飛び散る事こそないものの、レサがいたらどうしてこんなものを割るのかと問われた事だろう。
それはザカリー自身が聞きたいことなのだったが。
とりあえずこっそりと炊事用の薪をくべる所へ混ぜ込み、気付かれない事を願っておく。
思わず浮かべた、いい年して自分は何をやっているんだ、という言葉の「いい年して」を心中で切り取る。
いい年しても何も、子供の頃からこんな感じなのだ。もはや運命として受け取るしかないだろう。

勿論、彼の頭にそれならば努力しよう、という考えは浮かばない。

子供の頃の嫌な思い出も蘇ってきたので、割った記憶は意識から払拭。
便利な頭というべきか、長年の間に身に付けた立ち直り方法というべきか。

「茶でも飲むか……」

誰も居ないのに、確認作業の様に声を出してしまう。
いや、誰も居ないからこそ声を出したのかも知れない。
が、まず茶葉の置き場所が分からない。
自分の家で何がどこにあるか分からないのは不便なものだ──と他人事のように考えてみる。
出したら出した場所に置き去りのザカリーとは対照的に、レサは使ったものをすぐに戻す。
出しっ放しにしておいた方が、次に使う時楽だとザカリーは思っているのだが、あちらはそうでは無いらしい。

「これか?」

上の棚からはみ出ている麻袋。
記憶を漁って、茶袋の外見を思い返すとその麻袋とよく似ている。
麻袋を見た後に思い返したからよく似ているように感じるのだという可能性は削除した。

「よっと」

少々高いところにあるそれに向けて背伸びをして──踏み台を使うという考えには至らず──袋の端を掴む。
しかし、引っ掛かってるのかその先が出てこない。
誰かが反対側から引っ張って邪魔してるんじゃないか、などと言うナンセンスな事を思い浮かべながら眉根を寄せ、さらに強く引っ張る。
次の瞬間。

「どわっ!?」

悲鳴。
ガラガラと音が聞こえてきそうな勢いで、棚から袋が落ちて来る。
鍋やまな板、或いは食器の類でなかったのは幸いだったのだろう。
しかし、麦粉の入った袋が落ちたのか、茶味を帯びた粉を全身に浴びた。
器官に入り込んでしばしむせる。
周囲は正に大惨事になっていた。

「………………」

思考を巡らせ、三秒で片付けは無理と判断。
手に持った袋を見れば空袋で、ザカリーの疲労を増大させた。
無言で自分に掛かった粉を叩き、視線を逸らしながら台所を後にする。
麦粉を被った棚や床から非難の声が飛んできそうだったが、生憎自分は死人使いなので無機物の声は聞こえない。
茶が飲めないならば、本でも読んで気を紛らわそう。



そして今。
今度は本棚のある書斎が大惨事となっていた。
崩れた本の山の上で、不貞腐れてザカリーは本を読んでいる。
元々この家は、古書収集が趣味の老人が住んでいたらしい。
老人が死んで、家を貸し出していたところにザカリーらが移り住んできたのだ。
古書収集が趣味といっても、貴重なものは殆ど無く、過去の思い出を留めるためだけに集められたようなもの。
ただ量だけは、五つもある本棚から溢れるほどであり、実際溢れてそこかしこに積んであった。
ザカリーはその内の一つの山から本を抜き出そうとし──抜き出したものの、山は崩れた。
ドミノ式に連鎖して、周囲の山が崩れていくのを止める手立てなどザカリーにはない。

したがって。

地震が来たか、サイクロプスが近くを歩いたかという状態になってしまった部屋の中で本を読んでいる訳である。
言い訳をすれば、ザカリーだってさすがにこれは片付けようとした。
しかし、近くの本を取れば今度は違うところが崩れ、一箇所を直したと思ったら別の場所が崩れて、直したところまで山に帰る。
これはもう、自分に対して本が集団で嘲笑しているようにしか思えない。
本に馬鹿にされては、人としての存在が危うい──ということで、征服者として本の山の上に君臨する事にした。
とは言っても、居心地はすこぶる悪い。
本の角は背に当たるし、腕を少し動かせば山の一部が崩れるし、息抜きにパイプを吸うことも出来やしない。
結局、さして長く経たない間にザカリーはそこからも撤退せざるをえなくなった。


外は既に夕暮れにさしかかっていた。
居間で紅く染まった天井を見詰めながら、ザカリーはぼんやりパイプを吹かす。
麦粉にまみれた台所に本の崩れた書斎を思うと頭が痛くなってくる。
しかもレサはまだ帰って来ない。
暇を出した覚えもないし、大体、あれに暇を与えたところでどうしようも出来まい。
だとすると、愛想を尽かされたか何かを企んで家を空けているか──。
どちらにしろ、ザカリーにとっては面白くない話だ。

「……くそ」

色々嫌になって、足音も高く玄関へと向かい、ドアノブに手を掛けた。
すると。

『遅くなりマシた』
「ぐはっ!?」

勢いよく扉が開いた。
目の前に星が飛ぶ感覚というのは味わいたくない、と一瞬薄れた意識でザカリーは思う。
レサはドアを開いた姿勢のままでザカリーを見詰め、そして一言。

『何やってんデスか』
「……それが第一声かっ!? 詫びとか労わりはっ!?」
『ああ、ついいつもの癖で。大丈夫デスか?』

正直なところ、気遣う調子はあまり見られなかった。
ザカリーはきっと顔をあげ、相手に向けて指を差す。

「大丈夫なわけあるかっ! それよりお前、何処行ってたんだ!?」

レサはローブを羽織り、仮面をつけた格好で首を傾げる。
これで鎌でも持っていれば立派な死神である。中も骨だから正に適役。

『何言ってるんデスか。ご主人が薬草が無くなった、って言うからジョアンさんの所に行ってたんデスよ』
「……は?」

気の抜けた声を返すザカリーに、レサは深く深く溜息。
仮面で表情は伺えないが──それ以前に、仮面が無くても見えないが──呆れている様子は伝わってきた。

『昨日の夜、言いマシたよね? 明日の朝、取りに行って来マスって』
「えー……あー……」
『──聞いてまセンでしたね』

針を刺すようなレサの言葉。
よく思い返してみれば、確かに言われていた気がする。
本に没頭していて、半ば聞き流していたわけだが。

「し、しかし、それでもこんなに遅く……」
『ジョアンさんの所でも切れてたんで、採って来るまでちょっと待ってたんデスよ』
「………………」

打った鼻を押さえながら、ザカリーは遠い目。
一人で苛立って騒いでいたわけか、と思うと妙な虚脱感が沸いてくる。
レサは薬草の入った籠を居間の机に置き、台所に向かい、そして声。

『ご主人』
「……あ?」
『何をどうやれば、こんなに汚れるんデスか……』
「あ」

麦粉のことを忘れていたザカリーの顔が引き攣る。
骨はくるりと身を返すと、前に立った。
背丈では劣るが、威圧感では数倍ある相手に数歩下がるザカリー。

『ご主人』
「あ、ああ」
『一言いいデスか』
「── 一言なのか?」
『いえ、百言以上言うかもしれまセンが』
「嫌だ」

目を逸らしながらきっぱり断ったザカリーに構わず、レサはソファに座らせて小言を始める。

『別に完璧にやれとは言いまセン。けれど被害を最小限に食い止めるくらいの努力はして欲しいデスし、何かをやった場合はせめてそれを片付けるくらいの心遣いはあっていいと思いまセンか? やったらやったまま、じゃ本当に子供と変わりないんデスから、ちょっとは自分で何かをやるという自主性をデスね……』
「────」

しばらく終わりそうに無い骨の説教に、ザカリーは再び天井を見た。
紅はすでに薄い青へと色を変えて、やがて黒へとその身を移すのだろう。
その頃までには、この小言も終わっているだろうか。

『ご主人、聞いてマスか?』
「うぁい……」

些かの安堵感と、昼食を食べていない事に気付いてしまってから急に増した空腹感を胸に、死人使いは返事をするのだった。

とある日の、平和な話。







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