「で、最初に戻るんだけど、恵里」 「なぁに? 麻美ちゃん」 「何で私たちはこんな山の中にいるのかな?」 首元に落ちてきた葉っぱを払い落としながら、麻美が尋ねる。 恵里はにっこりと笑って応じた。 「やだ、麻美ちゃん。付いて来てくれるって言ったじゃない」 「そりゃあ帰りに『ちょっとだけ寄るところがあるんだけど』って言われたからね」 「だから用事を済ませようと思って」 「だから何しに来たんだっつーの」 声が低くなった事にも、恵里は気付いていない様子。 飛んできた虫を手で叩き落している辺りは、雰囲気に合わずワイルド。 山の中、と言っても、町の外れにある小さいものだ。 神社があるので祭りの時はそれなりに賑わう。 が、普通の女子高生はまず間違いなく学校帰りには立ち寄らない。 指を組むと、そのまま頬の横に運び、恵里は小首を傾げる。 騙されてはいけない。 彼女は夢見がちな少女ではない。 「だって、夢の中でここに行け、って指令が下ったのよ。ベイベイマス様から」 「またあんたの自作神かっ!」 夢を見すぎてどうしようもない電波娘だ。 ちなみに三日前まではエンディ友朗神。その前は鍼灸無敗神。 新しい神を作って信仰するのが生きがいらしい。 何でこれが友達なのか麻美だっていまいちよく分かっていない。 「ええ! 麻美ちゃん、夢のお告げは大切なのよ!」 「んな怪しい神からのお告げは要らん!」 「駄目よ、教典「まーすまてぃくす」にもそう書いてあ」 「数学の教科書じゃないのっ!」 「だって教典作り直すのって大変なんだもんっ!」 「開き直んなっ!」 「開き直りは美徳よっ!」 爽やかな木々の空気を吹き散らす乙女の声。 そして折れるのは、いつも麻美の方が先。 「……神社まで行ったら戻るかんね」 「──麻美ちゃんもベイベイマス様を信じ」 「何も無かったらさっさと帰ってコンビニ行くから」 そんな怪しげな神を何で信仰せねばならないのか。 麻美は大体無宗教である。それはまあどうでもいいことだが。 何も無いに決まっているが、戻ったら恵里に何か奢らす。 そう決意して、麻美はうっとおしい枝を払い、恵里に続く。 神社はそれ程高い場所にあるわけではなく、すぐに辿り着いた。 「やっとついたわ、お告げの場所!」 「あー、はいはい。じゃ、帰ろうか」 「麻美ちゃん、性急に事を進めちゃ駄目よ。もう少しで天から啓示が」 「降りてくる前に暗くなるわ」 不服そうな顔をする恵里に麻美は大きく溜息。 本当にヤバイ域まで行ったら友達として止めてやろうとは思うのだが。 どこまでを個性と取ってよいのか困る所である。 人間なんてそんなもんよ、と麻美が何処か悟って帰りを促した時。 「……麻美ちゃん、歌、聞こえない?」 「は、歌?」 人差し指を唇に当てた恵里に、麻美が耳を澄ますと確かに小さな歌声。 神社の裏手の方から聞こえてくるようだ。 途端に恵里が目を輝かせる。 「天の啓示よ!」 「んな訳あるか」 「善は急げよ麻美ちゃん!」 「あんたさっき、『性急に事を進めちゃ駄目』とか言ってなかったっ!?」 だっ、と走り出した恵里に慌てて続く。 虫除けスプレーを持っていなかった事が悔やまれる程度の下草を踏み越え。 覗き込んだ先には──目を丸くした小学生。 いきなり人が走り寄って来たら、そりゃ驚くわな。と冷静に考える。 「麻美ちゃん、やっぱりこの子が御つか」 「あー、恵里ってば、勘違いしちゃ駄目じゃない」 「麻美ちゃんてば」 「ああ、何かしてたならごめんね、すぐに戻るからさ」 「麻美ちゃ」 「無関係の人まで巻き込むんじゃないっ!」 一喝すると、恵里はしゅん、と大人しくなった。 いつもこの程度ならば問題なく可愛いお嬢さんなのだが。 黒のランドセルを隣に置いた少年に目を移すと、困ったような顔。 その膝には、楽譜が置かれていた。 「合唱コンクールでもあるの? 邪魔して悪かったね」 麻美が手を振ると、少年は小刻みに頷いた。 ……少々目付きがキツイ麻美の顔が怖かったのかも知れないが、それはさて置く。 と、恵里がその楽譜を見て。 「懐かしいー。この曲、私も歌ったよ」 「そういやあんた、合唱部だったっけ」 「中学校で止めちゃったけれどね。面白いよね、この曲」 にっこり語りかけた恵里に、少年は顔をしかめて大きく首を振った。 「……面白くなんか、無い。つまんない、こんなの」 ぼそりと吐き出された言葉は、楽譜に落とされた目線の様に沈んだもので。 恵里は少年の目線に合わせて屈み込むと首を傾げた。 そのまま立ち去ろうとしていた麻美も仕方なく足を止める。 「どうして楽しくないの?」 「……どうでもいいじゃん」 「私その曲好きだから、ちょっと悲しいなって思ったの」 「知らないよ」 少年の言葉は素っ気無いが、唐突に現れた相手に対してでは不自然でも無いだろう。 おまけに登場の仕方が少々派手である。 恵里はしつこく会話を続けた。また何か変なことを言い出さないかハラハラものだ。 「そっか、でも歌えば楽しいもんだよ?」 「──……歌えないんだもん」 目線を落としたまま、押し出す様に少年が呟いた。 だから、こんな場所で一人で歌っていたのだろうか。 泣きそうな顔になった少年に麻美は心中慌てるが、恵里のマイペースは変わらない。 「じゃあ、ちょっと歌ってみて?」 「……歌えないって言ってるじゃん」 「歌えるところだけでいいの。途中まででも。ね、駄目?」 「俺下手だから」 「ほら、じゃ、一緒に歌おうよ」 「何でさ」 「一緒だったら歌えるかも知れないでしょ?」 にこにこ笑いながら強引に話を進める恵里に、少年はとまどった様子で。 「歌ったら下手だって馬鹿にすんだろ?」 「しないしない。麻美ちゃんだってしないよね、ねー?」 「いきなり私に振るな。いや、しないけどさ」 「だってさ、じゃ、行こうか、せぇの、いち、に、さん、はい!」 「え、あ」 ちゃらららら、らー、と口でイントロを開始する恵里。 少年はためらいながらも、流されたのか小さな声で歌い出す。 「……大きなー空をーあーおーいでぇ」 「ち、いさなー、とーりーをぉ?」 途中で少年の声が裏返った。 ぎゅっと唇を噛んで、顔を俯ける。 黙り込んでしまった相手に、恵里は微笑を向ける。 「大丈夫大丈夫、今度はさ、お腹にぎゅっと力入れてみて」 「……歌えないってば!」 「それでさっきの音取ってみようか、をー!」 「人の話聞けってば」 「はい、をー!」 小学生にも言われるか、その言葉。 傍で聞いていた麻美は遠い目をするが、恵里の特訓だか何だかは終わらない。 麻美が虫に食われないかを心配するのに疲れてきた頃、 ようやく恵里はぱちぱちと拍手をした。 「ほら、出来た!」 「……ほんと?」 「出来た出来た! ほら、面白いでしょ? 上手かったもん、今の!」 「……う、うん」 恵里のペースに巻き込まれたことも忘れ、はにかんだように笑う少年。 確かに、麻美から聞いても音程の外れは無かったし、綺麗だった。 予想外に、恵里のアドバイスは効いたようだった。 夕暮れに近くなった空を見上げ、麻美は声を掛ける。 「恵里、そろそろ帰ろうって」 「あ、そうだそうだ。ごめんね麻美ちゃん」 「君だって帰らなきゃまずいでしょ?」 少年に話し掛けると、彼は慌ててランドセルを背負った。 恵里がその背に向けて手を振る。 「ばいばい、頑張ってね」 「あ、お、俺」 「うん?」 「……と、遠山、奎吾」 「けいご君? 私、住田恵里だよ。また会ったら宜しくねー」 何が宜しくなのか分からないが、遠山少年は大きく頷いた。 そして彼は肩越しに振り返り、 「あ……ありがとう!」 僅か顔を赤くしてそう告げると、ランドセルを鳴らして麻美たちとは 反対の方向へ駆けて行った。 その音が遠くなるまで見送って、恵里も腰を上げる。 笑顔の相手に、 「……良かったじゃん」 「うん、やっぱり歌うのは楽しいね」 「ま、お告げが無くともこれでも良かったんじゃないの」 冗談めかせてそう云うと、恵里は首を振った。横に。 「何言ってるの、麻美ちゃん」 「は?」 「彼を導けっていうお告げだったのよ! ベイベイマス様が夢で示したのは!」 「うぉいっ!」 思わず裏拳で相手に全力突込み。 カバンで素早くガードした恵里は、夕暮れの空を見詰める。 「そうね、きっと彼は、ベイベイマス様の使い……シャンソン遠山!」 「何でシャンソン。ていうかフルネーム言ってっただろうが」 見直して損した、が素直な感想だった。 後からすぐに、そんなのいつものことだったな、と遠い目。 ご満悦な様子の恵里は、鼻歌を歌いながら一人で先に歩き出している。 「麻美ちゃん、置いてくよー」 「……あんたを待ってたんでしょうが!」 まずはコンビニじゃなくて薬局に行って、虫刺されの薬を買おう。 数箇所蚊に食われた足を見下ろして、一度振り返り。 遠山少年、次に会ったときには拝まれるかもしれないよ。 赤い顔で去っていった少年の為、無宗教の麻美は適当に誰かに祈りを捧げるのだった。 |