少女と悪魔とアップルパイ





「あら、そろそろ林檎が傷んじゃうわね」

……家に甘ったるい香りが満ちる原因となったのは、母のその一言であった。



『真由、真由! 何が出来るんだ!?』
「見てりゃ分かるから」

目を輝かせて私の手元を覗き込んでくる相手に、投げやりに一言。
漆黒の瞳に髪。そして翼。
激が付く程の甘党であり辛党である味覚障害気味の悪魔、ヴァルクである。
もっとも、悪魔と言っても禍々しい等という雰囲気からは程遠い。
いや、林檎を剥く私の手元を見詰めているその様子は、全く只のお子様だ。

『完成した暁には、きちんと俺様の所に貢げよ』

……しかも小生意気な。
頬を抓ってやりたい衝動に駆られるが、平常心だと言い聞かせる。
林檎の皮が多少厚くなってしまったのは不可抗力だ。
しゃりしゃり、と言う音に顔を上げると、悪魔はさっき剥いたばかりの林檎を食っていた。

「ちょっと、食べないでよ」
『しかし、少しばかり量が多くはないか?』

人の話を聞いちゃいねぇ。
確かに、ヴァルクの言葉も間違ってはいない。
私の目の前には、林檎のピラミッドが出来ていた。
何しろ量が多かったので、無心で手を動かす様に努めていたのだが。
改めて見ると、ああ、良くやったな私、と言う思いが湧いてくる。

『おい真由っ! 人の事抓ったまま自分の世界入るのはやへろっへ、ほひ』
「あ、無意識のうちに手が」
『嘘付けっ!?』

ついでに私は、自分の世界に入っていた訳では無く、過ぎ去りし時に思いを馳せていたけだ。
ほとんど同じじゃないかと言う言葉は聞かない事にする。
そんな感じに自己完結しようとしていたのに、ヴァルクはぶつぶつと呟いて。

『前々から言っておるが、貴様には思いやりとか優しさとか慎みとかその他諸々が無いのか全く』
「思いやりのない娘だから、完成品はいらないね?」
『なんて事を本気にする程、冗談の分からない人間だとは思っておらんぞ、真由』

そろそろ世渡りの知恵がついて来たらしい。
ぱたぱた、と翼をはためかせて無闇に爽やかな笑顔を向けてくる悪魔。
と、そこで母がキッチンから顔を出した。

「真由? 誰かいるの?」
「ううん。テレビじゃない? それより、林檎剥き終わったよ」

振り返る私の隣には飛んでいるヴァルクがいるが、母は全く気にせずこちらへ歩んでくる。
このお子様の言う事には、彼の姿は私にしか見えない。
正確に言うならば、『見える人間には見える』らしいのだが……。

『なあ、真由……お前の母、少しばかり鈍いんじゃないか?』
「言わないで」
「何?」
「何でもない何でもない」

母の頭上をひたすら旋回しながら呟くヴァルクに思わず返し、ついでにフォロー。
些か呑気な感のある母に、何かの気配を感じろと言うのが無理な話なのだろうか。

「ところで、一体どれだけ作るのさ?」
「ああ、もうそれで終わりよ」

ごく自然な感じで話題転換成功。
が、この間にも、甘い匂いが台所から漏れてきていた。
途端に鼻を動かして、ぱっ、と顔を輝かせるヴァルク。

『菓子だな!? 何を作ってるんだ!?』
「終わりったって、もうかなり作ったじゃん? そんなにあっても使う?」
『無視かオイ!』
「生よりは保存が利くだろうから、大丈夫大丈夫」
『貴様は気付け!』
「腐らせないでよ?」
『うーがー!』

喧しい。
今ここで返事をしたら、また変な目で見られるだろうが。
頭を使えお子様よ。

『誰がお子様だっ!』
「……あ?」

心の中で呟いたはずなのに、とヴァルクの方を見る。
幸いな事に、母は台所へと戻っていた。
ぺしぺし、と人の事を細い尻尾で叩いて、ヴァルクは鼻を鳴らす。

『ふん、貴様の考える事なんざ全部お見通しだ』
「うわー、プライバシーの侵害ー。変態ー」
『待て待て待てっ!? 俺様は一部しか読めないぞっ!?』
「何だ、全部じゃないじゃん」
『くっ……! 誘導尋問とは汚いぞ貴様っ!?』

いや、人の心の中読む様な反則野郎に汚いとか言われても。

『誰が反則野郎だっ!?』
「だから嫌なら読むなって」
『貴様が強く思った事しかこっちは読めないんだから仕方有るまい!?
 ていうかそんな事しか強く考えんのか貴様!?』
「その通り」

きー! と空中で地団駄を踏むという器用な真似をするヴァルクは放って、台所へと。
甘い匂いが一段と強くなる。
鍋では、林檎の砂糖煮が作られているはずだ。

「これ煮て終わったら、パイ作るからね」
「……また量考えないで作るの止めてよ?」
「大丈夫大丈夫、お父さんにも送るんだから」
「───」

私は知っている。
父(現在単身赴任中)が、実は甘い物が苦手だという事を。
母の前では笑顔で食べてはいたが──手が震えていた。
……愛なんだなぁ、と思った事を覚えている。

「後、尚哉君の所に持っていってあげてくれる?」
「あー、了解」

愛についての考察に入りかけた私を、母の言葉が引き戻す。
ともかくこの甘ったるい場所から撤退しようと振り返った私の目の前に、ヴァルク。

「わっ!?」

額がぶつかりそうな位置にいる相手に、思わず叫ぶ。
何をやってるんだこのガキは。

『ナオヤ? とは誰だ?』
「何?」
「あ、いや、ちょっと床が滑った……」
「あら、じゃ、後で拭いておくから」
「うん」

引きつり笑いで返すと、ヴァルクに視線を戻し。
ちょっとお前、部屋まで来い。
そんな台詞を、さっき言われた通り、心の底から深い念を送ってみた。

『スケ番みたいだな、貴様』

どうやら上手くいったらしいが、それよりも。
階段の途中で、相手の首ねっこ引っ掴み。

「……何処でそんな言葉覚えた」
『テレビ。ふっ、このヴァルク様は頭が良いからな、どこぞの真由と違って』
「ああそう。トコロテン式に前のが押し出されていく訳ね」
『トコロテ……? ……意味判らないが物凄く馬鹿にされてる気がするっ!?』

頭を抱えるヴァルクを押しやって、部屋の扉を閉めた。
よし、トコロテンは判らないんだな、とか考えつつ。



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